日蓮宗三派合同と分離独立

昭和16年の戦時体制下の合同と戦後の分離独立

本頁は昭和16年、国家非常時体制下の指導のもと行われた日蓮宗・顕本法華宗の合同と敗戦後の分離独立について、その経緯を紹介するものです。構成にあたっては日蓮宗什師会刊『日什上人第650遠忌《報恩記念誌》』の「法燈−近代・昭和」(渡邉一之師記)の記述を軸に、当時の社会情勢・各派の合同奉告文、回想などを交え一部新資料を追加して大正期の門下の交流と統合の気運から戦時下の指導に基づく統合と敗戦後の分離という大きな時代潮流を理解していただけるよう留意しました。そこで、下記に明治・大正・昭和の社会情勢と門流に関する関連年譜を作成しましたので、必要に応じて参照して下さい。

三派合同奉告式(身延山御真骨堂前/昭和16年)

資料;明治大正・昭和関連事項年譜

<詳 細>

*当時の関係事項や時代情勢について大まかに整理しました

◆プロローグ 大正期の門下統合の気運

 明治34年7月、本多日生上人の提唱する門下統合・統一の一環として、藤沢片瀬龍口寺で、「本化門下第1回夏季大講演会」が行われた。各派から主要な人物140人が参加し、講師には本多日生上人、田中智学氏・加藤文雅上人など英才が出て、来る立教開宗650年に門下の奮起を促した。
 大正3年(1914)11月3日、門下7管長は池上本門寺で各教団統合大会議を開き、同年12月には日蓮門下統合後援会が組織された。しかし、日蓮宗大学の他学林受け入れ問題で日蓮宗が統合から離脱し、翌大正4年6月、顕本法華宗・本門宗・法華宗・本門法華宗・本妙法華宗・日蓮正宗の門下6教団の統合が成立し、大正6年2月10日に浅草統一閣で門下統合講習会が開催され、同年11月には東京白山の東洋大学(旧哲学館)近くに統合宗学林を開校した。
 本多上人の社会教化活動の結実に門下は力を増し、やがて大正3年、門下は一つの目的のもとその活動を集結する。すなわち、日蓮宗・顕本法華宗・本門宗・法華宗・本門法華宗・本妙法華宗・日蓮正宗・不受不施派・不受不施興門派の門下9宗派の管長の連名(当初、本多上人とともにこの運動を進めてきた田中智学居士も田中巴之助の俗名で賛助人に名を連ねている)になる「立正大師」の謚号宣下の請願である。これに対し、宮内省は大師号を各派の中心となって運動してきた顕本法華宗の本多日生を通じて大師号宣下を伝え、10月13日、本多管長はじめ各派の管長は参内し、宮内省より宣下書の伝達を受け、築地水交社に宣下書を奉安して奉戴式を行った。こうして本多日生を中心とする大正期の門下統合の活動は頂点に達し、近い将来にはその目的を達成するかに見えた。
 しかし、昭和6年3月の本多上人遷化後、門下は急速に統合の気運を失っていく。一方、大陸の戦雲は徐々に日本に暗い影を落とし、社会からも徐々にかつての自主・自由の気概が後退し、やがて日本は逃れられない戦争の泥沼に足を踏み入れていった。

宮内省からの通達

日蓮聖人への「立正大師」の謚号宣下を伝える宣下書

奉戴式に臨む日蓮門下各宗代表

◆昭和の三派合同

 昭和14年(1939)、日本の大陸侵攻政策に対する欧米列強との対立が深化、全面戦争に備える国家非常時体制のもと、宗教に対する国家の統制が行なわれた。すなわち宗教法令の確立を図り、適正な宗教行政の運営に資するため、宗教団体に対する保護助成の措置を拡大し、公共の福祉を害し公安をそこなう恐れのある宗教団体の抑制に努める制度としての「宗教団体法」制定である。すべての宗教団体は文部大臣の許可を義務付けられるなど、国家がいよいよ非常時に突入し、社会組織も個人も国家の統制下に入らざるを得ない時、宗教各界もまた、極力団結して国家目的遂行に奉仕すべきことを要請されたわけである。
 昭和15年、門下合同の工作は門下中一番大きな派を形成し当時の軍部からの指導統制の窓口となっていたと思われる日蓮宗側からの働き掛けで起った。各派ともに協議を重ね、折衝委員会が重ねられ、日蓮宗・顕本法華宗・本門宗は合同することに一致、昭和16年(1941)3月2日の合同決議により、三派は合同し、新たに「日蓮宗」が設立認可された。この合同の形態は一が他を吸収して合併するのではなく、三者が消滅して新たに一宗派を形成する設立合併であった。
 そして、その特色は、総本山を身延山久遠寺とする。大本山を従来の池上本門寺・中山法華経寺・京都妙顕寺・京都本圀寺の四大本山に新たに京都妙満寺(顕本法華宗)・北山本門寺(本門宗)の二山を加え七大本山とした。また、特選議員中旧顕本より六名、旧本門より四名の議員を任命することとし、宗務役員の中には参与2名を任命することとした。さらに身延山の法主即管長制を改め、管長は総大七本山貫首の中から宗機顧問会が推薦することにした。特に「本尊」については「本宗ノ本尊ハ宗祖奠定ノ大曼荼羅ニシテコレヲ本門ノ本尊ト称ス、大曼荼羅ハ紙木ノ様式ヲモッテ勧請シ併セテ宗祖ノ尊像ヲ安置ス」と定めた。また、「三宗派合同ノ上ハ本尊ノ薫正ト僧風ノ刷新ヲ計リ迷信ニ類スル修法ノ粛正ヲ期スルコト」が協約された。
 昭和16年4月3日、この三派合同を慶祝するため、合同奉告式が総本山久遠寺において挙行され、三派から管長・宗務総監・部長等要職要人が参席した。式後、三派代表はそろって祖廟へ参拝、次いで棲神閣において大慶典が奉行された。旧日蓮・旧本門・旧顕本の順に各管長はそれぞれ声涙あふれる奉告文を言上した
(各派管長の奉告文へは下のボタンで)

各派管長奉告文

日蓮宗

本門宗

顕本法華宗

 時あたかもこの合同の年、すなわち昭和16年(1941)は什祖第五百五十遠忌に祥当した。そして同年4月11日から三日間、京都妙満寺において三派合同の宗門要人参席の中、井村日咸貫首導師のもと御遠忌法要ならびに合同奉告式が盛大に厳修された。
 このようにして三派合同は成り、新たな日蓮宗が生れた。前述のとおり、戦争に突入する非常時体制の国家統制下の合同とはいいながら、この合同の要因には、維新以来の門下の流れ、ことには本多日生等の提唱した門下統合運動によって引き継がれてきた合同の精神が側面にあったことが大きな要因である。昭和16年3月の日蓮宗宗会において身延山柴田一能宗議は次のように発言している。
──即チ、今期宗会ノ最初ニ既ニ御話モ御座イマシタ通リコ
ノ成果(合同実現)ノ蔭ニハ宗門外カラハ本多日生師、清水梁山師、田中智学師等ノ努力ニ預カッテ力ガアッタカラデアリマス。三宗派ノ合同ヲ承認シタ第三十七宗会モ円満裡ニ終了シマシタガ、偶然ニモ明三月十六日ハ統合運動ニ盡力サレタ本多日生師ノ祥月命日ニ相当致シマスカラ、宗会ヲ代表シテ品川妙国寺ノ墓地ヘ展墓ヲ願イ度イノデアリマス───
 昭和17年(1942)9月、合同当時の旧顕本法華宗管長井村日咸は日蓮宗の立正大学学長に就任した。次いで昭和19年(1944)9月、井村日咸は日蓮宗管長に就任した。

◆敗戦−分離・独立

 昭和20年(1945)8月15日、戦争は終結した。旧来の国家統制は崩壊し、アメリカ占領軍GHQによる自由化政策が席捲したが、宗教もまた自由化の時代を迎えた。宗教団体法は消滅し、昭和20年「宗教法人令」が発令された。宗教は自由となり、自主的存在の中で、許認可制は廃止され宗教団体の設立は単なる届出制になった。
 昨日の正義今日悪となる敗戦の激動の中から一部青年僧より「全仏教を実乘の一善に帰せしめんとせられた聖誡の一分に副ひ奉らん・開山正師の志を現代に祖述せん・新日本の建設の先驅たらん」との門流の分立、あるいは門流の改革をもって合同日蓮宗の団結を維持せんと二様の運動が起きた。
 戦後の混乱・革新の気運が渦巻く中、唯物論的立場よりの反宗教闘争、新興宗教の勃興、キリスト教の進出による危機感、そして、それらを包み込む貧困と社会不安。なすべき術を失った仏教界の深刻なる反省の欠如、道義の低下混迷のなかで、これら青年僧は危機感を抱いた。そして、この運動に対し門流は分立・反対の両論の二分された。
ここに、これら青年僧の当時の憂宗の思いを伝える二つの文書が現存している。
(ボタンを押して参照して下さい)

宗門分立反対声明書

日蓮宗革新同盟(宣言)

 昭和22年(1947)、妙満寺は日蓮宗を離脱して独立した。妙満寺に従って約二百ケ寺の什門寺院が続いて離脱し、妙満寺を総本山として「顕本法華宗」を再び設立した。離脱独立の理由は“昭和16年、戦争遂行の非常時体制の中で政府当局の統制下にあって合同を強要された。日蓮宗門下にあって、什門の理想を実現し、純粋教学の振興と僧風の刷新を目指しても不可能である。よって、什門の伝統的教義信条の護持を根本的な理由として独立する”というものであった。一方、日蓮宗に留まった什門180カ寺は、什師会として、会津妙国寺・見付玄妙寺・吉美妙立寺・戸塚本興寺の4本山を容して今日の日蓮宗にあって活動している。
 昭和26年、宗教令が廃止され、新たに法人法が制定され民主的教団作りに宗門は始動を始める。しかし、自作農創設特別措置法による農地解放による打撃を受けた地方寺院の傷は深く、その影響によって多くの地方寺院は急速にその勢力を奪われていった。

独立を呼びかけた中川上人の書簡

「日蓮宗什門派」組合規約

■附記;中川上人の回顧(分離独立の事情)

 こうして、顕本法華宗(日蓮宗妙満寺派)は妙満寺を総本山とした顕本法華宗、合同日蓮宗に留った什師会寺院、そしていずれにも属さない単立寺院の三様に分れた。それは現在に至るまで大きな課題を門下に残す結果になったが、最後に、その門流に独立を呼びかけた中川日史管長(当時)の述懐を掲げ、合同・分離独立に揺れた宗派の姿と時代状況を考えておきたい。(以下は、中川師が晩年期の昭和49年に著した『回顧』より「什門の復建」の項より略出したものである)

 大戦中、軍部や、政府は社会の各分野に合同を要請したが、その手は宗教界にも及び、日蓮門下も各派合同の指示を受けた。宗教について門外に立つ軍部や、政府は等しく頭に「日蓮」の二字を戴くのであるから、各派合同は易々たるものと考えていたのであろう。それも無理ではない。しかし、一宗一派が独立しているには、教義にも、信仰にも、歴史的に大きな経緯と相違があるので、単に名義を以て、局外から想像するようなものではない。それを見境もなく合同を指示するのは無茶というものである。
 信仰を有たぬものが、時局に便乗するのはしばらく措く。所属教団の伝統的信仰に生きる者には、合同の指令は正に晴天の霹靂であった。すべての宗教の殉教者は、時の権威者が、教義信仰を異にする他宗他派への改信や、合同を強要弾圧した結果の犠牲者である。
 ここに詳記は預るが、理不尽なこの合同指令がわが教団に下るや、わたしは事の非を管長並に宗務当局に説いて、強く拒否を進言した。初めは宗務当局も、断乎、指示を拒絶した。しかし、政府の指令は命令的となり、他教団よりの合同勧誘は次第に頻々となり、当局は遂に屈して合同を諾した。わたしはそれを知って合同の不可を更に力説したが、阻止するには腑甲斐ないが力が足りなかった。でも、やがて大事な任務が降りかかるような予感がして、黙々と自重していた。
 いよいよ合同に発足するや、管長は会議の中の最も大事な合同教義決定の会議に、わたしに委員としての出席をもとめて来た。最初は固辞したが、遂に止むなく応諾して微力を致した。無論、数度の会議が繰り返された末、幸いにわたしの所論が大きく採用されて、ある程度の信仰的満足を得る教義が出来上がり、総会の議場でも決定を得たので、わたしは管長に報告して置いた。
 しかるに、ここに経緯の記述は一切をはぶくが、宗団当局は一言のことわりもなく、一向に知らぬ間にわたしの苦心をば、悉く水泡に帰せしめたのである。流石にわたしもその措置を心にすえかねたので、その後は合同のことには、公私ともに全然タッチせず、静かに孤高の道を歩んでいた。かかるうちに、大戦に敗戦して国家の各般のことに一大変動を来たし、宗教も、軍部や、政府の勝手な干渉からのがれ、信仰の自由が保障されることとなった。
 この時、わたしは推されて、昭和21年、妙満寺に晋山することとなった。晋山と同時に同志を糾合し、内外からの圧迫を排除して、「合同日蓮宗」より分離独立して什門教団顕本法華宗を復建した。
<中略>
  独立に反対を唱える残留派の人たちの中には、旧日蓮宗に対して革新運動を展開し、その成功に自信を有つ多くの人がある。曰く「身延山の開放」曰く「雑乱勧請の撤廃」等々々。その革新条項の一々は、私も多年提唱し来たったところであるから、一切に敬意を表し、その実現に多大の期待を寄せる。併し、彼の宗の長い歴史と現状に顧み、果してこの理想実現が可能であろうか? 一度思いをここに致す時、木に椽って魚を求めるよりも、なお至難なるに想到せずにはいられない。大器の人ならばとにかく、私の如きが前途を見透し得ぬかかる理想に自己陶酔し、現在の儘の宗団生活を継続しているなら、みずからを損い、遂に什門を再起不可能の深淵に追い落すであろうことを、私は頻りに怖れる。之を要するに、理想に即けば残留派に組すべく、現実に即けば独立の外にない。
 素より、独立が什門更生の念願に在りとはいえ、門下の革新、延いて普く仏教界の改更統一に対する希望と努力を、忘れるものではない。然るに、今日、独立を断行する所以は、「他を正しうせんと欲せば、先ず己を正しうすべし」との聖徳太子の教示を、座右の銘とした自己の現実反省の結果である。従って、残留組の如上の運動にも、力の及ぶ限り、外に在って支援を誓うて、決して吝かでない。

 このように、当時中川管長は分離独立後も門流寺院は相たずさえて什門の伝統を継承し、その発展を希っている。一方、この中川上人の決断は、以後の門流に大きな課題を負わせるせる結果になったことも事実であり、現在も門流はこの大きな課題を残したままである。しかし、この決断には前述のように戦時体制下における軍部主導による合同の矛盾と敗戦による社会の疲弊の中、什門の宗風・伝統の純粋を護ろうとする憂宗の思いもあったであろうことを付言しておかなくてはならないだろう。

望月 日謙管長

由比 日光管長

井村 日咸管長

左から本門宗・由比管長、日蓮宗・望月管長、顕本法華宗・井村管長