奉 告 文−顕本法華宗管長 井村日咸

 慎み敬って勧請し奉る本門壽量の御本尊、別しては、勅謚立正大師宗祖日蓮大聖人、門祖日什大正師等、来臨影嚮悉知照覧の御前に於て、謹で門祖開創以来の門流を解体し、日蓮門下合同の儀を言上し奉る。夫れ惟るに大海は衆流を収め、泰山は土壤を譲らず。開顕統一の経王何ぞ万教を摂せざらんや。然るに本化の門下各々法流を分つは、啻に経意に背くのみならず、宗祖に忠なる所以に非るなり。抑も我が門祖の教を弘むる、固より別派分立を意図するものに非ず。唯宗祖の正義を昂揚せんと欲するに在るのみ。顧みるに門祖曾て北嶺に在るや、壮歳夙に能化と為て経釈を講ずと雖も、胸中一箇の疑団あり遂に解く可からず。晩年故山に帰りて藩公の請に応じ、衆を集めて学を講ずるや、偶々一凾の秘書を感得して之を閲し、積年の疑冰釈然として茲に融解し、忽ちにして天台の昨暦と慈覚の邪義とを悟る。秘書は即ち宗祖の開目鈔及び如説修行鈔なり。時に年六十有七。是より弘通の雄志欝勃として止まず決然二三子を携えて故山を脱出す。その志正に壮なりと謂うべし。然も飜つて当時六祖の門流を観るに、各々嫡庶を争つて兄弟牆に閻ぎ、然も化儀行法に於て甚だ意に満たざるものあり。此に於てか敢えて六祖の門流に投ぜず、直ちに宗祖の法水を汲んで門下に列し、名を日什と改めて法華弘通の法幢を洛陽に進む。爾来法子教孫その躅を継承して門葉繁茂し、明治三十一年、顕本法華宗と公称す。然も固より別派分立の意なき、門祖既に会下に垂誡して曰く、「本経祖判に合する者あらば、その門流を問わず之に随身すべし」と。以って其意知るべきのみ。若し夫れ時至り、門祖弘教の素志に違わずんば、何ぞ必ずしも舊門流と合同するに吝かならんや。茲を以って明治三十五年、早く統合の議を唱え、更に大正初年、先師本多日生進んで門下教団統合の運動を起し、各流と倶に統一閣に於て之れが講習会を開く。日咸亦た之に関かる。然も時未だ到らざるか、遂に成らずして再び旧態に還る。惜むべしと言うべし。然るに今や聖代の昭運に方り、期せずして澎湃として合同の声起る。是れ門下諸教団衷心の声ならずんば非るなり。何ぞ区々の情実に泥んで此の好機を逸す可からんや。茲を以って我等は率先衆に諮り、欣然として日蓮宗と倶に合同に決す。是れ什尊弘教の真意にして、而してまた先師の本懐とする所なりと信ず。然も本門宗亦た合同に決し、倶に本日、祖山奉告の儀を整う。何の悦びか之に若かんや。聞く、爾余の諸門流亦た合同の意あり、唯之を実現するに時なき耳と。若し夫れ全門下合同し、挙宗一致、異体同心、以って広宣流布の大願に邁進せば、宗祖の法喜夫れ幾何ぞや。乃ち今、不肖日咸門流を代表し、恭しく仏祖の御宝前に合同の儀を報告し奉る。
 仰ぎ願くは宗祖日蓮大聖人、門祖日什大正師、並びに歴代の諸先師等、我等が微衷を哀愍納受し給わんことを。


                                            顕本法華宗管長 井村 日咸