平成の摂受折伏論/摂折
日蓮宗はじめ門下では、このところ摂受・折伏という二様の布教手段・姿勢に関する日蓮聖人の教説をめぐって、論議が起こっています。この論議を行っている今成元昭師はかつて『統一』誌の「仏教の心と言葉」欄を担当執筆され、この問題にもふれ「日蓮聖人の本懐は摂受であり、その時の社会情勢により、やむなく折伏的な方法をとった方なのである」と書かれています。
財団はじめ日什門流では伝統的に日蓮聖人のお立場は折伏立教とたてておりますし、門下でも概ね同様の見解をとってきましたので、日蓮聖人の教えにおいて折伏イコール暴力として、「摂受を本懐とされた方」とされた今成先生の論議は日蓮教学上においても特異な見解として際立ったものでした。
そんなわけで、当財団でもその問題に対する調査や資料解析を行い、今成先生の所論に対する2・3の指摘をしてまいりました。
季刊『統一』における摂折諸論関連事項のご報告
はじめに
季刊『統一』は明治・大正期に多彩な日蓮主義運動を展開し門下統合を夢見られた元顕本法華宗管長・本多日生上人門下によって明治29年に創刊された顕本系教誌です。現在の発行は主に本多上人ご門下の関係者を理事・評議員とする財団法人統一団が行っております。この財団は大正15年5月に9期にわたる管長を辞した本多上人が昭和4年に直弟子の僧俗10人をもって同師会を結成、僧俗・宗派・門流を越えて宗義の講究・門下の統合を目指すものとして翌5年に統一団協賛会の計画に着手、6年1月に同会が発足するも、3月16日、本多上人がご遷化、門下の布教の中心的役割を担ってきた浅草統一閣(盛泰寺境内地)を退き信徒の全額寄進によって音羽に会館を建設、翌7年6月に財団認可となり宗門組織を離れ『統一』の発行を継続しましたが、昭和20年の空襲ですべてを失い、本部を移し僅かな基金で書籍の発行など財団活動を継続、近年同地に会館を再建、現在に至っております。現在の『統一』誌はこの財団の団報として総頁26頁・中綴じの小冊子で、年4回各1200部を日蓮宗什師会・顕本系単立寺院・顕本法華宗有志寺院・檀信徒等に発行頒布を行っています。(参照:『日蓮宗事典』815〜816頁「統一団」項)
今成先生には平成2年3月号より「仏教の心と言葉」のタイトルで41回の連載を賜りましたが、平成12年4月号をもって執筆終了のお申し出があり、現在に至っております。
■本誌周辺の今成先生の摂折関連の発言とご指摘の発端(平成11年〜12年)
*今成先生のご意見のご発表について、『統一』掲載に関わる事項のみご報告します。
□平成11年4月号・7月号『統一』に今成先生の連載「仏教の心と言葉」欄に「摂受・折伏」(一/二)を掲載。
□平成11年7月中旬、読者より、今成先生の<日蓮聖人が摂受を本懐としながらも己れを取り巻く環境の諸事情によって折伏的実践に明け暮れしなければならなかった人であった>との説について数件の指摘、その中で文書でご指摘を頂いた大賀義明氏のご指摘を7月下旬に先生に送付、時間がある時にせめて大賀氏の疑問には返事をして欲しい旨を伝達。
□9月、財団より今成先生に摂折に関する「Nふぁいる」用語複合検索データ150余件、明治29年に本多上人、今成乾瑞上人が先鞭をとって門下が共に取り組んだ「『各宗綱要』四箇格言削除訴訟」の資料等を送付。(摂折問題の再考をお願いしたかったのですが・・・)
□11月・12月、国柱会の教誌として真世界社から発行されている月刊『真世界』平成11年11月号・12月号に国柱会講師の秋場善彌氏より下記の原稿が掲載されました。
[「末法の大導師日蓮聖人の下種の折伏」−今成氏の「日蓮聖人ご自身は決して折伏を本懐とした方ではなかった」という誤謬を正す](上・下二回)
□大賀氏へ今成先生のお手紙を伝達。内容は大賀氏の疑問に答えるものとは言い難く、本誌としても掲載について議論が起こった際には出来るだけ公平な議論の場を提供すべきと存じ、今成先生に最低限のご回答を賜りたく、大賀氏に先に伝達したご指摘を投稿として掲載したい旨お願いし、今成先生にも掲載原稿の確認・ご承諾を戴いた上で、平成12年1月号に読者の投稿として掲載致しました。
[「本誌138号「仏教の心と言葉」−摂受・折伏(二)の内容について質問します」]
*なお、同号の今成先生の連載欄のテーマは「開会」で、諸宗教との融和と法華経の思想について述べられています。
□1月17日、日蓮宗什師会の「新年講習会」にて今成先生の摂折の講義。
*この時は質問時間が短く、まとまった指摘・答弁は行えませんでした。ただ後日、この時に配布された先生よりの9葉の資料を当方にて典拠を確認したところ、東洋大の境野先生の引用、『開目抄』日乾対校本の典拠明示に若干の問題があり、今成先生に伝達致しました。
□4月号に『顕本法華聖典』『日蓮聖人の本懐』等、数々の著作のある月刊『佛の光』主筆の窪田哲城師に本誌より原稿依頼を行い、下記表題で原稿を掲載させて戴きました。
「日蓮聖人の布教法 摂受・折伏について」
*この依頼については当方としては僅かな頁の小冊子で微妙な当該問題を論議していくことに難を感じており、今成氏ともその旨了解をとって摂折論議については肯・否1回ずつにておさめて頂く方針で進んでいましたので困難を感じました。しかし、本誌のとるべき立場を明示すべきとのご意見・ご指摘はごもっともであり、窪田師の原稿を今成先生に送付、ご確認を頂いた上で掲載致しました。ちなみに、同号の今成先生の連載欄は「四悉檀・四意趣」でした。
□勧学院会議等での今成先生のご発言に注目された『福神』誌にて今成先生を招き講義を聴いた内容が『福神』の次号(4号;6月13日発行[福神講義「摂受か折伏か日蓮聖人の摂折観−今成元昭])に掲載されるとの話を聞き、恐らく『統一』誌における経過・問題点等については福神研各位様はご存じないと考え、「福神研各位様へ」とした当方の諸指摘をまとめた文と関係する『統一』バックナンバーを送付させていただきました。
□5月、今成先生より本部に、長期の連載で多忙ゆえに連載執筆をを終了したい旨ご連絡があり、今成先生は11年にわたる「仏教の心と言葉」欄の連載執筆を終了されました。
□6月末、福神研より『福神』4号掲載の内容について当方の関係からもご意見を5号に投稿して欲しい旨ご連絡を頂き、諸方にご意見を是非にと連絡しましたが、窪田上人以外にこれを受ける気配は無く、やむなく先の当方の「福神研各位様へ」との文も問題の齟齬を起こさぬよう整理して掲載して頂くことにしました。
□7月号に今成先生から摂折問題に関するご寄稿があり、下記の表題にて掲載。
「日蓮聖人の摂受折伏問題検討資料をめぐって」
*上記ご寄稿を掲載するにあたって、当方に寄せられた意見、諸師のご指摘、資料典拠の問題点を整理した資料を作成し「今成先生の所説をめぐって」の題で併せて掲載致しました。
□8月初旬、『福神』5号(9月の発行予定)への投稿をお受け頂いた窪田師より当方に原稿送付があり『中外日報』『統一』『福神』各紙に同時に同様の原稿を送り掲載をお願いした旨。各紙の発行形態の事情により、窪田師の原稿は当初の予定からずれて、『中外日報』(8月か9月発行の紙面・未見)、『統一』(10月号/「再び日蓮聖人の布教法 摂受折伏について」)、『福神』5号(11月発行/「同タイトル」)の順に・・・。
なお、『福神』5号には当方の福神研様に宛てた指摘に加筆訂正した文を「摂受−折伏 今成説への疑問」の題を付けて頂き投稿コーナーに掲載して頂きました。
□11月、先の大賀義明氏からは折りにつけて励ましのお手紙や重大な知見を頂いていましたが、氏より、スペースの都合もあろうが、貴誌ではやはりしっかりと教学を踏まえた方の見解を掲載すべき、とのご意見があり、立正安国会主導の片岡邦雄師をご紹介戴き、当方にて片岡先生に執筆のお願いを致し、快諾を賜り、「本化の道風と徳香」の題で連載を開始。第1回を平成13年1月号に掲載、現在も継続掲載中。
(以上概況報告12年中まで/注:平成12年以降について主な事項を略出すれば、12年初旬より東京西部宗務所主催の「布教講習会」ならびに同教化センター「講習会」で今成先生の所説についてのパネルディスカッションがあり、状況説明−同教化センター発行の『教化情報』に詳細の報告あり。また、平成13年度「什門懇話会」でも今成先生が講演、この時は顕本の方も多く出られていたので、多くの反論があったとのことです。なお、今成先生の発表や反論は現在も諸方で継続中です)
1)今成元昭先生の所説の概要
まずはじめに、今成先生の説について整理してみましょう。以下は東京西部教師研修会における今成先生のご発表をまとめた『教化情報』第10号の掲載原稿について、その掲載の今成先生の所説を大賀氏が整理したものです。現在までの今成先生の所説が要領よくまとめられていますので、ご本人のご承諾をいただきまして原文引用させていただきます。
[『「教化情報第10号」今成氏所説の梗概』/大賀 義明 ]
1.「起」の段
1.1 前提として折伏の定義があり。
(1)折伏とは、「受難を怖れぬ常不軽菩薩の礼拝行」のごときものではなく、悪口雑言の類であり、物理的な暴力も辞さない強引な布教方法である。
(2)日蓮聖人は、「不軽行は折伏行である」という規定をされていない。(筆者注:但し聖人が「不軽の紹継者」であることを否定はしていない)
1.2 問題提起
(1)日蓮聖人は本当に、悪口・暴力の「折伏」を本意とされた方だったのか?
(2)以下の理由により、日蓮聖人の実像に迫る必要性を感じた。
@宗門の先師の中には、他宗・他門に対して「悪口に類する」ことを書く人がいた。
Aそのように他宗から「取り合ってもらえない」要素がこちら(日蓮宗)にはある。
B誤った日蓮聖人觀が、超国家主義者を作り出している。
2.「承」の段
従来宗門で「折伏主義」の文証とされている2点の主要御書を検証し、摂・折いずれが本意かを明かす。
2.1『如説修行抄』の検証結果:
以下(1)〜(5)の理由により、同抄は偽書であるから折伏正意を論証する文証にはならない。
(1)摂受・折伏の用語の使用法が通途と相違する他の真蹟遺文では摂・折を一双で用いられているが、同抄では摂受に比して折伏が圧倒的に多く使用されている点が通例に反する。
(2)他の真蹟遺文には引用の見られない釈の引用がある。天台・法華玄義の「法華折伏破權門理」は他の真蹟遺文には引用は無い。『註法華經』にも無い。
(3)「山林隠棲」を摂受の故に否定的に扱っているが、他の真蹟遺文に「山林隠棲」を否定的に扱った表現は無い。
(4)他の真蹟遺文に無い表現がある。「如説修行」という表現はなさらない。
(5)文体が通例に反し軍記物的である。
2.2『開目抄』の検証結果:
御真蹟には「常不軽品の如し」の表現は無く、またそのことは「不軽行は折伏行である」とする文証にはならない。
(1)曽存の御真蹟には、「不軽行即折伏行」ということの唯一の文証であるとされる「常不軽品の如し」の一句はない。それは日存本、日乾本から明らかである。
(2)他の真蹟遺文には「常不軽」という表現はない。聖人は「常不軽」という表現をされない方なのである。
(3)同句の挿入された流布本は、聖人を「折伏主義者」に仕立て上げるために、聖人滅後に門下の人々が「湛然流」の解釈を取り入れて意図的に改作したものである。
(4)『開目抄』の、「末法に摂受折伏あるべし。(中略)日本国当世は、悪国か、破法の国かとしるべし」の文は、末法当時の日本国では折伏を行ずべきである旨を明言されてはいる。しかしこれは「安楽行品に反するから諸難にあうのだ」という批判に対して、天台妙楽の釋をもってこたえただけであって、積極的に主張しているのではない。
3.「転」の段
上段の文証を検討した結果、聖人は「折伏」を実践すべき事を説かれてはいるが、しかしそれは積極的に言っておられるわけではなく、「批判に対する対抗」である「仕方なく折伏を実践」されていたのである。また聖人は摂折を重視していなかった。
(1)折伏主義は龍口・佐渡法難時の「今日斬る明日を斬る」という非常時対策としての「時限立法」である。
(2)摂折に関する遺文数が少ない。このことはそれほど摂折問題を重視していなかったことを物語っている。そのことは『開目抄』と『転重軽受法門』とで、「悪国」に当てはめる「摂受」と「折伏」が逆になっていることでも証明できる。摂受・折伏の言葉が出てくる御書は全て依智から佐渡時代のもので、その後は全く出てこないことも、摂・折は瑣末な問題であったことを裏付けている。
(3)摂折を恣意的に解釈してはならないことを主張されている(『富木殿御返事』の「摂受折伏の二義は仏説に任す。敢て私曲にあらず」の御文)。
(4)僧侶は摂受でなければならない旨を説かれている(『観心本尊抄』の「此の四菩薩、折伏を現ずる時は賢王と成りて愚王を解釈し、摂受を行ずる時は僧と成りて正法を弘持す」の文)。
(5)「正像末の不同もあり。摂受折伏の異あり。伝教大師の市の虎事思合すべし。此より後は下総にては御法門候べからず。了性・思念をつめつる上は他人と御論候わばかへりてあさくなりなん」(『富木入道殿御返事』と言われて、「もう折伏してはいかん」と教訓を垂れておられる箇所もある)。
4.「結」の段
聖人の摂・折観を、「実践」と「本懐」に分け、聖人の本懐は「折伏」でなく「摂受」であったことを主張し、結論とする。
(1)折伏という化儀だけが重要ではなく、摂受も大切な行である。摂折は勝鬘経に詳しく説かれており、また同経には「摂受正法」をさかんに説いている(摂受の55回に比し、折伏は3回使用されている)。聖人が勝鬘経を「中心に」おいていることは、真蹟断簡に勝鬘経の「勝鬘経云く、摂受折伏」からみて明らかだ。
(2)つまり聖人の「本懐は摂受」であったが、周囲の状況から「折伏的実践」をせざるをえなかった、ということである。
(3)日蓮宗立教の立脚点が、本来的に武力行使を是とし、悪口も罵倒も悪くはないという折伏に根ざすものであるならば、異教徒との対話、宗教共同体といっても歯切れのない悪いものになってしまう。
■当財団の資料検索及び解析における当該所説の疑問点
以下は当方が東京西部宗務所主催の布教講習会でパネラーとして発表した内容(『教化情報10号』掲載)を補足した指摘事項・問題点です。
@<日蓮聖人が摂受を本懐としながらも己れを取り巻く環境の諸事情によって折伏的実践に明け暮れしなければならなかった人であった>との文意がよくつかめない
今成先生の論旨中、「摂受」「折伏」の語、その相互の関係が明示されていないという感を持っています。すなわち、今成先生は、「日蓮聖人が摂受を本懐としながらも、折伏的実践をなさった」と「折伏的」との言葉を用いられていらしゃいますが、それは「日蓮聖人の本懐は摂受であって、折伏はなさらなかった」との意味を含んでいると解釈していいのでしょうか。そうではなく、「折伏もやむなく実践した」という意味を述べているのでしたら、「的」の語は余計ですし、便宜的に折伏のような方法をとったとするなら、摂受という本懐が折伏に比すべきような激しい相手への弘教の実践を含むものか、そしてそれをも「摂受」と呼ぶのかという問題が残り、うまく意味がとれないのです。
どうも、この折伏・摂受・実践・本懐の用語の配当をもって実際に宗祖の弘教の姿勢を述べようとされるこの先生のご文章は<日蓮聖人は○○を本懐としながらも、己を取り巻く環境の諸事情によって、○○の実践に明け暮れしなければならなかった人であった>という情緒的な感動の構図が支配的で、一見日蓮聖人のお人柄や布教の困難を想起させ、つい是認してしまいそうになるのですが、実は摂折の語を当て、正確な両語の検討をするには不適当な用語の配列なのではないでしょうか。「摂受」「折伏」の語の指すものは、二項対立の概念というよりも、運用の面で相互乗り入れする布教・実践そして教えの受持への対応手段を表す用語の一つのあり方、ということが重要な要素で、かかる検討に「的」を付けられるのなら、先ずその語に関わる関係概念・運用の範囲を明示すべきと考えます。
A真蹟現存遺文のみのご文章・用語を検討対象とする方法について
今成先生は「宗祖の教えを知るために、真書と偽書を弁別する確実な方法として、真蹟の現存する遺文(の用語)のみを対象として検討を加える」というのですが、これは本当に確実な方法といえるのでしょうか。すなわち、真筆現存以外のご遺文を、教学の典拠対象からすべて駆逐したところで論議をする方法は、宗祖の真意を知るための確実な方法とは思えないのです。現存以外のご遺文も多数存在したでしょうし、この方法による典拠の選別はあまりにも粗いような気がします。
B『開目抄』の日乾対校本の記述を指摘の典拠とするにはさらに調査の必要があります
先生が問題とされている『開目抄』の<常不軽品のごとし>の挿入如何の典拠明示について少なからず疑問があります。すなわち、日乾対校本を見ますと、該当部分が囲まれ「御本ニ無」の注記が付されています。それと同時に全文にわたって見ると相当箇所に文字を筆で消した箇所があります。注記対照文を囲んでいるものと、明らかな削除の二種類の校訂は何を意味するのでしょうか。さらに、小川泰堂師は高祖遺文録の『開目抄』−当該箇所あり−所収十二巻末に、明治五年に身延でご真蹟をもって古版不審なるところを確認し「全部は中古遠乾二師の親写上木アリシ百部摺本ノ内ノ一本ヲ得テ謹テ校定セリ」とあり、縮刷遺文八二四頁の同抄−当該箇所あり−末に稲田海素師が「明治三十五年六月七日、京都本満寺において乾師の御真蹟直写対照之本を以て正に之を校し奉る」と書しています。これを併せて推するに、今は原本が見当たらない乾師がこの校訂をもとに発行したと思われる「百部摺本」にあるいは当該部分があった可能性なども考えられます。今成先生が日乾本の裏付けとして典拠を当たられた日存本には確かに当該文はありません。しかし、存師も乾師もさらに、存師の甥の隆師もいずれも「摂受本懐論」など展開されていないと認識しています。また、普通に読んでみて、「常不軽品のごとし」の語が無い方がこの文において「折伏」の趣旨が強くなるようにも思えます。何れにせよ、本件の結論を導くにあたっては、さらに詳細な典拠資料の吟味、原本の調査の必要を感じます。
さらに、今成先生の『開目抄』の当該文の解釈について当方には未だ先生のご指摘のようには読めない部分があります。『開目抄』の今成先生が問題にされる段中、涅槃経等の引用の後に続く「汝が不審をば世間の学者多分道理とをもう。いかに諌暁すれども日蓮が弟子等も此をもひすてず。一闡提人のごとくなるゆへに、先天台妙楽等の釈をいだしてかれが邪難をふせぐ」のご文章。本件が問題になってから幾度か読み直してみたのですが、私にはどう読んでも、「汝」の指すものは前段の「疑いをおこして皆すて」たと述べられた弟子・信徒つまり当該箇所の疑問を抱いた人々、さらに心中にその疑念を宿す可能性のある対合衆で、「世間の学者」は、それらの人々にもっともらしいことを述べるであろう天台・真言等の論師、そして「いかに諫暁すれども」の主語は日蓮聖人、と読めるのです。そうしますと、このご文章はおよそ、「あなたの疑問を世間の(天台・真言の)学者もおそらく当然と思うだろう。私がいかに教えていても日蓮の弟子等ですらこの疑問の念を捨てない(日蓮が流された今はなおさらであろう)。(今はあたかも)一闡提人(仏種を持たない者の如くに正法への疑いの念にとらわれている者)のようになっているからだ。(そこで)まず天台・妙楽の説を引いてこのような疑念・論難をふせぐ(ふせぎましょう)」というほどに読んでしまうのです。
何より、日蓮聖人が文永八年の法難を回顧され、佐渡に至った宗祖が最後に残った志を継ぐ者に宛てた「遺書」ともいうべきこの『開目抄』でかかる議論がおこることに未だ違和感を拭えません。
C勝鬘経の「摂受正法」の解釈について
先生はその所説で勝鬘経の文を引かれて勝鬘夫人の「摂受正法」について述べられていますが、この勝鬘経に述べられる「摂受」「折伏」の語は、日蓮聖人における両語の運用範疇を示す原形とも考えられるものなのではないかとも感じます。しかし、この経文自体の意味では「摂受」はやはり「護持」「受持」の意味に関連する「救いとって護り励ます」というほどの意味に解釈する従来の解釈が正しいと感じます。すなわち、「摂受正法」を<正法を摂受の方法で弘める>と読むよりも<正しい法をすくいとって護る>というように読んだ方が自然です。また、このお経の結びの部分には下記のような夫人の言葉とそれに対する仏の言葉があります。
「諸余の衆生は諸の甚深の法に於いて、妄説に堅着し、正法に違背し、諸の外道を習ふて種子を腐敗する者なれば、当に王の力及び天龍鬼神の力を以て、しかも之を調伏すべし。その時に勝鬘、諸の眷属と仏足を頂礼したてまつる。仏の言はく、善哉善哉勝鬘、甚深の法に於ては方便もて守護し、非法を降伏するには善く其の宜しきを得よ」
上記漢訳文には摂受・折伏の訳語こそありませんが、本件に関わる重要な一文と思えますので、是非とも含めて解釈をしていただければと思います。
それにしても、「甚深の法に於ては方便もて守護し、非法を降伏するには善く其の宜しきを得よ」という仏さまのお言葉はすごいと思います。このお言葉と宗祖のお言葉を読み解くことで、今般の摂折の問題に何らかの解決が見られるのではないかとさえ思えてきます。
D『観心本尊抄』の摂折の文について
先生が「摂受本懐」の典拠の一つとして挙げられている『本尊抄』の「此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王 行摂受時成僧弘持正法」の文、「摂受を行ずる時は僧となって正法を弘持す」とあり日蓮聖人は僧で四大菩薩の上行のご自覚を持たれた方だから「僧たるものは、摂受を旨とすべき」と説かれているとの解釈ですが、当方にはそのように読めません。
むしろ、この部分は前後の文脈から見ると単に、末法の四菩薩の出現の相を示したもので特段に布教姿勢を示す目的の御文ではなく、仏法守護のための折伏・法難を語るの涅槃経の有徳王と覚徳比丘の話に寄せて<このように末法の時を選んで出現した四大菩薩は、折伏を現す時は有徳王のように(法を弘持する僧を護るため)愚王を責める賢王となり、摂受を行じる時は法難を恐れず正法を持つ覚徳比丘のように僧となって法を弘め護る(このように末法の弘教者は世に種々の姿で現れるのだ)>と、<こうした約足によって出現した四大菩薩は末法のこの時、摂折手段を尽くして種々に示現して正法を弘めまもるのだ>という前段を引き継ぎ後段につながる文意を主軸に平たく解してはいけないのでしょうか。この文だけを見ると確かに僧に摂受を配当してはいますが、いずれも四菩薩の応化の働きを述べたものであり、無理に前後の文脈から文章を切り離し「折伏を現ずる時は賢王」「摂受を現ずる時は僧」と役割を明示しているとするのは突飛です。むしろ涅槃経の折伏・法難の話を引いて、末法悪世における仏法護持の四菩薩の出現の相を述べたものととするのが妥当であろうかと存じます。また、ここを敢えて行の分別をしているとするならば、今成先生が典拠にあげられている勝鬘経で、在俗の勝鬘夫人が「摂受正法」と述べているのにも矛盾するわけですし、僧・俗の行の分別をここで示したものとするのも文脈上無理があります。ここは前後の文意に沿って読むべきだと思います。
E時代の潮流に合わない教義があっても
本件は明治29年に起こった「四箇格言問題」を想起させるものがあります。時局の要請によって各宗協会が組織され『各宗綱要』編纂が進められる中、提出した妙満寺派原稿中「所期国土」「四箇格言」「謗法厳誡」の項目が削除され、そのことについて日蓮宗と本成寺派・本隆寺派は妙満寺派を助けてその復活を訴えた出来事です。各宗の特色ある教義について解説することが綱要の編集方針で、互いの教義には立ち入らないことを前提とした編集局が当該項目を無断で削除し出版にいたった行為に対して、このような方針を許せば互いの宗派を知りその本質について考究し対話していく道を目前の状況判断で閉ざす結果になり、掲載全宗派の歴史的状況や伝統を曲げるものとなるとの訴えです。
確かに時代は東西の対話、南北の和合の方向に向かっています。そして伝統教団も時代に即応した対応が求められており、宗派も親睦交流機関・文化サロン的機能を備えなければならない一面がある一方、七百五十年の伝統を持つ宗派としては時代の流れと一線を画した教義・伝統があってもしかるべきで、またそうしたものが無いのはむしろ不自然とも思えるのです。
伝統や宗教教義には目前の状況判断では見えないものを宿している場合もあることを予測して慎重に扱わないと、それらは一気に曲がって再び元に戻らない場合もあります。必要なのは資料検索と繊細な解析、そして他のメディアへの弛まぬ説明・解説の努力だと思います。
F社会情勢と教えの吟味に関連して
江戸期の封建社会の中で、日蓮宗の一般の寺院・僧侶の多くは公然と折伏の教義を語ることなど思いもよらぬ状況であったと推されます。そして維新後の廃仏毀釈の嵐の後、その反動もあって幾分仏教教団への統制が弱まり、折からの出版文化の到来と相俟って、門下はようやく先師から受け継いできた折伏の教義を広く社会に向けて掲げることができる状況が到来しました。そうした社会情勢の中で今までの遅れを取り戻すかのように折伏の語は教義の上で様々に採りあげられ、それを聴聞する民衆の心の中にさらに大きな力となって浸透していったのではないかと思います。一方、政府は明治・大正期には西欧キリスト教文化・共産主義の台頭を恐れ、先の戦争下では非常時に備えるべく各宗のアイデンティティーを抑え合同を促しましたが、少なくとも明治・大正期の門下は宗派としてのアイデンティティーを失わぬよう熱烈に議論し、事実失うことは無かったのではないかと思います。それが、かつてのリーダーが世を去り、時代状況も変化し、さらに昭和20年の敗戦を境として、門下の機運が大きく後退し、かつての価値観も否定され、民衆の依るべきものに空洞化が起こった時、その中に異質な何かが入り込み、民衆が信じてきたものの空虚を満たそうとするランダムな欲求が生み出すいわば負の力を吸い上げたものがあったのではないか、その一つの現れが彼の「折伏」の語を先鋭化した彼のものたちだったのではないかと思います。これは、恐らく本日ここで議論した宗祖の教えを軸にした「摂受」「折伏」の教えとは別の質のもので、本来の目的を失い、組織を強化し、それらを増幅させていく不気味な動力機のようにのみ機能していったのではないでしょうか。
したがって、もしこのような本来の意味とはその存在理由を別にした「折伏」の概念が社会に未だ作用しているのであれば、私たちはむしろ、すっかり社会の中で傷ついてしまった「折伏」の語を捨てることを考えるのでなく、その正しい意味を吟味・解析し広めることを第一に考えるべきなのではないかと思います。
ここで、私たちが深慮なくこれを捨てる方向に進めば、将来に再び思いも寄らぬ何ものかがそこへ入り込み予想もし得ない方向に肥大化するような気がしてならないのです。
B宗祖の遺文において不軽品と折伏は関連しないのか
今成先生がご指摘される「開目抄」の当該部分の有無に関わらず、日蓮聖人の教えにおいて不軽品と折伏を関連付けると思われるご遺文は(真筆現存遺文に限って見ても)「開目抄」(定六〇六頁の指摘文/当該部分を抜いて考えても可)の文をベースに@「註法華経」(定注七巻−二二九)不軽品の箇所に「文句」の<不軽以大而強毒之>で終わる一段の文を引されていることA「寺泊御書」(定五一五頁の<過去の不軽品は今の勧持品−>の段)B「聖人知三世事」(定八四三頁の<日蓮は是れ法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するが故に>の段)C「法華取要抄」(定八一六頁の<末法に於いては大小権実顕密共に教有て得道なし−>の段)D「教行証御書」(定一四八〇頁の<此の濁悪たる当世の逆謗の−>の段)などがあり、これらを概ね拝読すると不軽品と折伏行の間に何らかの関連が見えてくると思うのですが、そのような読み方はなさらないのでしょうか。
◆今成先生の所説をめぐる状況(平成13年10月末日現在)
今成先生の所説については、『日蓮宗新聞』の「論説」欄に1回(桐谷論説委員=東京西部)、正法クラブの会報や宗会の代表質問に、かかる議論を行う意義と重要性が述べられています。しかし、それらの述べるところの今成先生の所説への評価はあくまで問題提起に対する意義を述べたもので、当方で把握出来うる範囲では、直接的または学術的に肯定されている例は西部教師研修会での多賀先生のご質問・問題提起等がありましたが、肯定の立場の論文等は未見です。また、勧学院でも今成先生が勧学院主催の研修会で自ら講演された内容が『院報』に掲載されていますが、未だ勧学院の議題として積極的に取り上げるべき問題とは定まっていない状況と認識しております。
一方、疑問点や反証を直接に示した例は、『中外日報』に発表された窪田哲城先生の所説、東京西部教師研修会における庵谷行亨先生の発表とレジュメ、伊藤瑞叡先生の勝鬘経そして本尊抄の研究など、今成先生の所説について肯定し得ざる疑問点・問題点の所在を示しています。当方においては、『福神』第5号ならびに東京西部教師研修会にて今成先生の所説をめぐる状況と諸指摘・反論を説明する機会を得ましたが、現段階では今成先生の主張される「日蓮聖人は摂受を本懐とされた」との所説を裏付ける資料ならびに論拠の明示が明確ではないと見ており、今後さらにかかる問題について、門流・各派において活発な議論がなされることを期待しております。
今成先生の所説については未だに
@原資料の検索・参照・引用に問題はないか
A摂折という概念を吟味するというには摂折という用語の使用・不使用の問題に偏っていないか
B遺文中の引用諸経文の解釈に原意との齟齬があるのではないか
C引用遺文と前後の文意・解釈に問題はないか
D真筆現存以外の遺文をも視野にいれた総合的な文意の解釈を欠いているのではないか
などいくつかの問題があげられています。
財団では、過去二年以上にわたって双方の指摘の整理・蓄積を行ってまいりましたが、将来的に、
<摂・折はどちらが「本懐」、どちらが表でどちらが裏、という二項対立の概念として据えない>
という視点を加えて、再度資料検索と整理を行っていきたいと思っています。
◆終 わ り に
<この平成の摂折論は現代にどんな意味があるのでしょうか>
「善哉善哉勝鬘、甚深の法に於いては方便もて守護し、非法を降伏するには善くその宜しきを得よ」
これは勝鬘経の末尾で、釈尊が在俗の勝鬘夫人に語ったお言葉です。こうした仏典の言葉に接し、過去2年間の議論を経てこの問題の本質を考える時、宗教情操を必要としない現代の世相と伝道という行為が大きく後退した門下のの姿が見えてくるような気がします。ある老僧からこの問題について次のような言葉がありましたので、最後に掲げさせていただきます。
<弘教つまり教えの伝播というものを海の波にたとえて考えてみてはいかがでしょうか。現今の摂折の議論は、仮に寄せる波の働きを「折」、引くを「摂」と分別して、波をめぐる状況すべてを論じようとしているようなものです。すなわち、波というものの作用ひとつをとっても、その仕事率や結果はあらゆる要因に応じて千変万化に反映するわけですから、どこまでも両者は仮の分別の枠を超えることは出来ませんし、一方がよりそのものの本質を表しているといった議論は無意味です。忘れてはならないことは、波(弘教)という力の律動を見る時、そこに実体として介在するものは、母胎となる海(釈尊の教え)、そしてそこに作用する物質・熱・大気・気圧・引力といった複合する自然のエネルギー(機・時・国・序)であるということ、これを忘れたところでなされる議論は無意味です>
今回の問題の背景には私たち僧侶が広く世間に自らの心の帰属する宗教についてその必要性を正しく説明・対話する作業を怠ってきたということに一因があるのではないでしょうか。また、そうした既成教団一般の姿勢を概ね容認している社会情勢に流されていった果てに、近年の宗教の名を借りた得体の知れない活動にさえ、私たちは有効な警鐘を鳴らすことも出来ず宗教に対する世人の不審を広げてしまいました。そして、こうした不審は社会全体の宗教情操をさらに後退させ、再び得体の知れないものが社会に忍び込む隙を広げつつあるように感じます。今後、私たちはこうした摂折の議論を超え、自らの足もとを見つめ、まず僧侶から自らの進むべき道を再認識しなければならない時が来ているのではないでしょうか。