近代日本の日蓮主義運動

2001年度 日本宗教学会賞受賞
   中村元賞受賞
『近代日本の日蓮主義運動』

A5版 上製本 446頁 本体6500円
法蔵館刊    075-343-5656

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本頁はこのほど、本多日生上人、田中智学居士の活動を通じて明治・大正期の日蓮主義運動の全貌に迫った『近代日本の日蓮主義運動』を刊行し、2001年度日本宗教学会賞、また、中村元賞を受賞された、 大谷栄一博士(東洋大学講師・社会学)の博士号取得論文「近代日本の『国家と宗教』の研究−1880〜1920年代の日蓮主義運動の場合」から、妙満寺派と本多上人の関連項目を抜粋掲載するものです。
時代を動かした巨大な運動について、原資料にあたりつつ、近代の日本社会を動かした「宗教」と「国家」の関係にも言及する稀代の研究は各方面より高い評価を受けています。

日蓮宗妙満寺派の宗派改革と
宗義講究会の結成

大谷 栄一氏の論文より/抜粋

1)本多日生の活動前史と宗制改革

浅草統一閣(明治45年4月落成)

 本多日生は、日蓮宗妙満寺派の革新派僧侶として歴史の舞台に登場する。最初にその活動前史を確認しておこう。
 1867年(慶応3)3月13日、日生は、播磨国姫路(現在の兵庫県姫路市)に姫路藩士・国友堅二郎と勝子との間に次男として生まれた(幼名長二)。幼くして母方の檀那寺である姫路市内の妙善寺(日蓮宗妙満寺派)の本多日境に仕え、姓を継いだ。小学校卒業後、同市妙立寺の池田日昌のもとで得度し、「聖応」と号した。日昌亡き後、岡山県津山本蓮寺の児玉日容のもとで妙満寺派の教学(日什教学)を学び、原泉学舎で西毅一から漢籍を学んでいる。18歳で大阪府堺市の妙満寺住職に任命され、1886年(明治19)に上京し、翌年、私立哲学館(のちの東洋大学。この年の9月に開校)の第1期生として修学しつつ僧職をつとめた。「東京へ来た当座は新しい学問をするために説教などは全然しないことにして居た」。しかし1888(明治21)年9月、当時の妙満寺派管長・板垣日暎に白井日熙とともに隨行して、北海道・東北地方へ巡教し「百数回の説教演説を試み」たことを、後年述懐している。
 日生は若くして僧階を昇進し、宗派内の重責をつとめた。1888年(明治21)10月、22歳で妙満寺派小学統に任命以後、中学統(1889年4月)、大学統(同年8月)、権僧都(1890年12月)と着実に昇進し、1889年(明治22)1月に宗会原案起草委員に任命以降、公会議員への当選(同年4月)、宗門要書取調委員長(1890年8月)、教務部長(同年11月)と宗派内の要職に就く。赴任先は、上京後の1889年(明治22)3月に姫路の妙善寺住職へ転任したが、7月には東京の浅草区永住町盛泰寺、同年9月には浅草区吉野町円常寺に転じ、さらに1891年(明治24)4月には浅草区新谷町慶印寺住職を兼任する。以後、東京を活動の本拠地としている。また1890年(明治23)2月5日、日生は河野日台・小林日至(日生の叔父)・山内太久美(桜渓、日至の義弟で日生の叔父)・小川会庸・金坂教隆・清瀬貞雄(日憲)・山根顕道(日東)・井村寛冉(日咸)らの宗派の有志と、各宗教の「宗義」の研究を掲げた「宗義講究会」を結成する(日生は幹事を担当し、河野が会長)。7日には「宗義講究会誌」を創刊し、河野が発行兼編集人、日生が編輯人をつとめた。
 日生は生涯を通じて数多くの運動体を組織しているが、ここでおもな運動体を確認しておこう。宗義講究会以降、1896年(明治29)12月、30歳の日生は日蓮門下統合の実践母体として、僧侶や在家者を結集した「統一団」を組織し、自らの活動の基盤とする。1909年(明治42)1月には「天晴会」(日蓮仏教の研究会)、その秋には「講妙会」(仏教経典の研究会)、翌年2月には「妙経婦人会」(婦人教化団体)、3月には「第一義会」(日蓮仏教の研究会)、翌1911年(明治44)5月には「地明会」(天晴会の女性団体)をそれぞれ組織している。こうした諸団体を通じて、当時の名士や婦人、学生を組織して日蓮主義の社会的な布教・教化活動を実践した。さらに1918年(大正7)3月に「自慶会」(労働者の「慰安と善導」を目的とした教化団体)、1922年(大正11)11月に「立正結社」(「立正大師」謚号宣下を記念して結成された教化団体)、1924年(大正13)1月には「国本会」(「国民精神作興詔書」に応答して結成された教化団体)、1928年(昭和3)7月には「知法思国会」(国民の「思想善導」を掲げた教化団体)をそれぞれ結成して、精力的な国民教化運動を展開した。なお、社会教化活動に関しては、1924年(大正13)に結成された「教化団体連合会」(のちの中央教化団体連合会)の理事(のちに参与)としても関与している。

哲学館(後の東洋大学)修了ノ際[明治31年7月]
中央の白い帽子を持った人物が井上円了、坊主頭の学林生も見える

 さて、日生が宗派内の要職に就任し、宗派内行政に挺身した時代に遡ろう。日生が宗派内行政に携わった背景には、本節の1で確認した当時の仏教界をめぐる歴史状況があった。1884年(明治17)8月11日の太政官布達第十九号によって、教導職が廃止される。この布達は「国家・天皇が管長へ住職・教師の任命権を「委任」し、教規・宗制・寺法などの教団法によって成立する教団を国家が公認しようとするものであった」。この管長権と教団法によって、これまで本山制や本末関係・法類関係にもとづいて管理・運営されていた各教団は、近代的な教団形成を開始していくことになる。日蓮宗でも1885年(明治18)5月に宗制寺法が施行されたわけだが、教団の中央集権化をめぐって大紛争が惹起する。当時、日蓮宗(一致派)内でも、−−勝劣派と同じく−−身延・池上・中山・六条・四条・浜などの各門流が分立していた。こうした宗派内の状況に対して、身延山久遠寺を総本山とし、各本山に属する全寺院(3,000寺以上)を久遠寺の末寺とする中央集権体制の確立が進められてきた。1888年(明治21)、本間海解と佐野前励を中心とする「日蓮宗革命党」(のちに「改革党」「為宗会」と改称)による「廃本合末論」の主張(8月)や、三村日修管長のもとで開かれた諮問総会(10〜11月)を通じて中央集権化の動きは本格化する。しかしこうした動向に対して、京都の各本山や池上本門寺、中山法華経寺などは猛反対し、「本山同盟」を組織して対抗した。この日蓮宗内の「革新・保守両派の抗争」は、1892年(明治25)までつづく大紛争となる。結局、革新派が敗北し、日蓮宗の中央集権体制の樹立は挫折している。
 この時期、門下第二の勢力を誇る妙満寺派においても、近代教団制度の形成に向けた「革新・保守両派の抗争」が生起した。ここに革新派・本多日生が登場する。
 1888年(明治21)9月13日、京都の妙満寺派学林長をつとめていた39歳の河野日台を筆頭に、白井日熙・横溝日渠・本多日生・山本日康・成島隆康・井村寛冉・小川玉秀・野口量印・松本日新・笹川日方の連名で、9項目2万7,000字におよぶ宗派改革の請願書が管長の板垣日暎に提出された。これらの僧侶は、妙満寺派の改革を求めて結成された「扶宗党」の成員であった。河野は日生と協力し、浅草の慶印寺(河野の住職寺)を拠点として「扶宗党」を組織し、宗派改革を求める請願書を提出した。
 河野時中によれば、妙満寺派における「宗門体制改革の気運」は、この年の8月以降に「熟成」された。まず8月2日、千葉大網の蓮照寺で横溝日渠を代表とする「護法同盟会」が結成され、53名の同志が宗派改革を開始する。同月5日には板垣管長に改革案8項目を提出し、却下されている。27日には、千葉士気の善勝寺の小川玉秀(日園)が寮持・法類持の寺院相続による弊害の改正を訴願したが、これも却下されている。こうした一連の動向の中で、扶宗党が結成され請願書が提出されたのである。
 さて請願書の内容であるが、「学事制度に関する意見」「布教方法に関する意見」「宗務組織に関する意見」「財務整理に関する意見」「公会開設の意見」「資格確定に関する意見」「賞罰法度に関する意見」「教式制定の意見」「住職進退に関する意見」からなる。
 その冒頭、「今ヤ本派ノ状態ヲ観察スルニ、実ニ悲憤ニ堪ヘサルモノアリ」と、妙満寺派の現状に対する批判が呈示されている。扶宗党に集った革新派の僧侶たちから見れば、「積年ノ流弊」は「金剛ヨリモ猶ヲ堅ク、滄海ヨリモ猶深」いものであった。それは「法類高位ノ檀横」が行われ、「宗制寺法ノ制定ヨリ、住職進退ニ至る百般ノ処置、悉ク陰謀機密ヲ用ヒ」るような状況であった。河野や日生らは、「私情臆断ノ制度」に対する抜本的な改革を求めて改革案を提出した。それは、学事・布教方法・宗務組織・財務整理・公会開設・資格確定(本山・末寺・教会・貫主・僧侶・信徒の資格について)・賞罰法度・教式制定にわたる。請願書の末尾では、「派内ノ実況ヲ比照シ、速ニ公会ノ開設ヲ布達」することを請願している。
 その結果、板垣は同年12月18日付で、「漸ク世ノ進化ニ隨ヒ得失一凖ナラス因テ宗規ヲ改良シ興学布教旺盛ラナシメンカ為明治二十二年五月ヲ期シ一派会議ヲ開ク」こと、つまり宗制改革のための公会開催を宗派内へ布達した。翌年の1月には河野や日生・白井・野口・井村らの扶宗党の成員が宗会原案起草委員会に任命され、原案(改革案)の作成に入った。また4月には公会議員が選出され、扶宗党の成員は公会議員として公会に参加することになった(河野は宗会議長に選出)。
 そして1889年(明治22)5月28日から7月8日、宗会原案起草委員会によって起草された原案(改革案)にもとづき、浅草慶印寺で妙満寺派の公会が開催された。公会では、−−議事録を見る限りでは−−日生の発言回数がもっとも多く、ほとんどの議論に対して日生が応答するといった形で進行していった。当日、たとえば管長の「宗務上ノ責任」に関する議論がなされている。旧宗制では、管長は総本山住職が就任すると規定されていたが(「第二章 管長選定法」第三条)、新たな宗制(改革案)では管長は公選のうえで選定され(「第三章 管長」第十四条)、総本山の住職(貫主)をつとめること(同章第十五条)に改定された。
 また、寺格に関する議論もなされた。改革案には寺格を設けないことが規定されていたが(「第六章 寺法」第四十二条)、この議案については「該派屈指の本多十三番議員などが最も之に同意を表」したため、ほとんど反対者がでなかった。この寺格こそが、(仏教各宗にとって)教団の中央集権化の際の躓きの石であった。この寺格をめぐって、日蓮宗では「合末論」による紛争が起こっている。妙満寺派は日蓮宗に比べて勢力が小さかったこともあり、総本山妙満寺を頂点とする一宗派一本山制を達成することができた。
 こうして公会は無事に終わった。新たな宗制は「総則」と「宗憲」にわかれ、「宗憲」は「第一章 立教改宗」から「第二章 僧侶」「第三章 管長」「第四章 宗会」「第五章 学林」「第六章 寺法」「第七章 宗務総監部長及評議員」「第八章 司律」「第九章 会計」「第十章 補則」の全10章全59条からなる。また管長選挙法と宗会、議員選挙法、評議員制に関する「付則」が付されていた。8月27日の内務省の認可によって、新しい宗制が9月1日付に宗派内に布達される。
 この宗制によって、妙満寺派の教団制度の改革が達成された。妙満寺派においては、河野や日生たちの革新派の主張が通り、中央集権体制が樹立される。またこの時、千葉の宮谷の大学林を東京の浅草区永住町盛泰寺へ移転すること、千葉の下総の宗務本庁を京都の妙満寺へ、支庁を浅草区妙経寺へ移すことが決定された。人事も移動し、管長には坂本日桓、宗務総監に板垣日暎、法務部長に河野日台がそれぞれ任命されている。しかし、こうした急進的な改革に対する反動が、後日、惹起する。河野や日生は宗派内からパージされることになる。

本多日生上人(大正11年宮中参内の折りに撮影)

2)宗義考究会の結成

 妙満寺派内の保守派の巻き返しを確認する前に、革新派の僧侶たちが集まって結成された宗義講究会の活動を確認しておく。
 宗会の翌年、教育勅語が発布される1890年(明治23)の2月5日、河野と日生、小林・山内・小川・金坂・清瀬・山根・井村らの革新派僧侶は、「宗義安心ノ精要及各宗教義ノ蘊奥ヲ専攻シ宗教ノ実義ヲ顕揚スル」ことを目的とする「宗義講究会」を結成する。この研究会は、宗派改革の請願書において提起されていた「布教方法に関する意見」を具体化したものである。ちなみにこの日の発会式の演説で、幹事の日生は会の創立の目的を次のようにまとめている。「世人をして真正に仏法の必要を知らしむる事」「菩提心を以て宗義を明かにする事」「僧侶の職務に於て本末を糾す事」「真正に宗義の信仰を興す事」「信仰上の事業を改む事」、と。
 会は浅草の慶印寺を拠点とし、毎週日曜日ごとに「宗義講究ノ為メ」の会合を開催していた。入会者は「会員」と「会友」にわかれ、会員は東京市内の妙満寺派の僧侶と信徒に限定され、会友は全国自他宗の緇素(道俗)を対象としていた。会誌は「本派ノ宗令会説講録演説々教法話討論及各宗教義ノ講説」の掲載を掲げており、坂本日桓の講話や小林の講録のほか、他宗(真言宗や天台宗、曹洞宗、臨済宗)の教義、日蓮門下各派(本隆寺派)の教義なども掲載されている。仏教各宗の「宗義」の研究を目的とした内容であることがわかる。
 この研究会の活動についての日生の見解が、「宗義講究」[1890b]と題された論説に示されている。
 「凡ソ一事一物ノ真理ヲ発見セント欲セハ必ス詳密周到ナル講究ヲ要スルハ論ナシト雖モ之ヲ講究スルニ富テ先ツ講究ノ方則ヲ確定スルヲ以テ必要トス彼ノ泰西諸学ノ進歩シテ殆ト発達ノ極度ニ達シタル所以ハ種々ノ事情ニ由テ此ニ至リタルモノナリト雖モ多クハ講究方則ノ整定セルニ是レ由ルモノト謂フヲ得ヘシ」。
 日生は、哲学館の学生として近代の学知としての「泰西諸学」を受容していたことが推測できるが、「宗義講究」を近代の学知の「講究方則」、すなわち方法論を介して行おうとする日生の立場が確認できる。
 つづけて「教学ハ其性質全ク反対ナルモノナレハ之ヲ講究スル方則亦大ニ異ナラサルヲ得ス則チ学問ニハ学問ノ講究方則アリ宗教ニハ宗教ノ講究方則ナカルヘケンヤ」とのべる。「然ルニ方今ノ仏教ハ講究ノ方則汎濫散漫トシテ殆ト依帰スル所ヲ知ラサルニ至レリ」として、「実ニ講究ノ方則ヲ評定スルハ宗義講究ノ一大問題ト謂フヘシ」と力説する。日生は近代知としての「学問」に対して、「宗教」の「講究方則」の独自性を確保しながらも、「仏教」の「講究ノ方則」の不備を主張する。そしてここに(仏教の)「講究方則」を、「宗義講究ノ一大問題」として提起するのである。その結論において、「仏教ノ教義ハ学理ト雙進併行スルノミナラス能ク学理ヲ包容シテ尚且ツ人智ニ超出シタル所ノ至深至妙ノ真理ヲ開示セリ」と、最終的には近代知に対する仏教の優越性を力説する。だがここでは日生のいう「宗義講究」が、近代知を媒介とした宗教(仏教)の教義の検討作業であること、またそれは仏教の「講究方則」(方法論)の検討であることを確認しておこう。以後、日生は近代知としての「宗教学」の方法論を援用しながら、日蓮教学を整理していくことになる。
 こうした「宗義講究」の態度は、当時の妙満寺派が抱えていたきわめて現実的な課題でもあった。そのことが、「宗義講究会誌」における当時27歳の清瀬や15歳の井村の言説から明らかとなる。
 この年の6月12日から7月5日にかけて、東京の築地本願寺別院で仏教各宗管長会議が開催され、浄土真宗本願寺派の大谷光尊を会長とする「仏教各宗協会」(以下、各宗協会と略)が設立された。「貧民救助」「仏教慈善会開設」「教育普及ヲ謀ル事」「殖産興業衛生等ヲ奨励スル事」などの事業とならんで、「新タニ精密ナル各宗ノ綱要ヲ編成シ之ヲ欧文ニ翻訳スル事」が議決された。すなわち、統一団結成の契機となる「仏教各宗綱要」の編集が決定されたのである(詳しくは、次節2(1)で後述)。なお、桜井匡によれば、この時期の仏教界は協力・提携に向かう傾向が強く、各宗協会のほかにも同年1月には各宗の有志と学生の800余名が集まって「仏教各宗懇話会」が開かれ、4月には30余名を集めた「仏教者大懇親会」が開催されている。
 このような仏教界の動向の中で創設された各宗協会であるが、その規約の「第一章 綱要」の第一条には、「本会ハ仏教各宗ヲ協同団結シテ共ニ興隆ノ進路ヲ取テ提携運動スルヲ目的トス」とある。清瀬[1890]と井村[1890]が、これに噛みついた。清瀬と井村の批判のポイントは明確で、両者にとって−−つまり宗義講究会に集う妙満寺派の僧侶たちにとって−−各宗の「興隆」の前提は、宗義の講究であった。
 清瀬は、次のようにのべる。
 「所謂る興隆と云へるものは。必す宗義の興隆なるへし。若し宗義の興隆にあらすと謂はゝ。各宗管長は何種の興隆を。謀んとするか。宗派の興隆は。宗義の明らかにして。且つ隆なるを謂ふものなれは。宗義の興隆を外にして。外に興隆を謀るへきものなし。」
 井村も同様の批判を行っている。この主張は、いわば「宗義講究会誌」の方針にもとづく批判であった。興味深いのは、清瀬が「四箇格言」をもって(日蓮仏教と)他宗との宗義の差異を強調し、井村が「本宗各派相互の関係に於ける。猶其折伏主義を確守して。敢て一歩を抂けす」と、「折伏主義」を強調している点である。つまり、後年の「仏教各宗綱要」における四箇格言問題は、日生ひとりによって引き起こされた問題ではなく、宗義講究会に集った妙満寺派の僧侶たちに共有されていた折伏重視の宗教的パースペクティヴにおいて、すでに予想されていた事態なのである。また、清瀬は(宗義の)「甲乙相較へ。其劣れるものを捨てゝ。其勝れるものを取り。雑多を簡んて。其一に帰する」を意味する「取勝帰一主義」を唱えているが、「宗義講究」の最終目的が自宗派の「宗義」の顕揚であることは明らかである。つまり宗義講究会の「宗義講究」とは、各宗派の宗義(教義)の検討作業にもとづき、妙満寺派の立場を鮮明化する作業であったといえるのではないか。
 だが、宗義講究会の活動はとぎれた。河野や日生らの性急な宗派内改革に対する反動が起きて、宗派内は紛糾し、革新派は僧籍の剥奪という決定的な処分を受けるのである。


(3)宗派改革と顕本法華宗義弘通所の開設

 革新派は公会の開催を通じて宗制改革を実現し、大学林や宗務支庁などの宗派内の重要機関を千葉から東京へ集中させた。さらにこの年(1890年)11月の人事移動では河野が大学林長、白井が本山部長、日生は教務部長に任命され、革新派僧侶が宗務庁のポストを独占する。宗派内の権力を完全に掌握することになる。しかし、「妙満寺派の寺院勢力は何としても千葉の七里法華である」。権力を奪われた千葉の保守派の長老たちの巻き返しがはじまる。
 この年末、日生たちは前年の宗制改革にもとづき、雑乱勧請の廃止(民俗信仰の撤廃)と本尊の統一(大曼陀羅一体か三宝式)を宗派内に指示する。とりわけ千葉の諸寺院では、本尊とは別に薬師如来や鬼子母神を勧請し、これらの民俗信仰による御利益信仰で寺院経営を行っていた。日生たちは、その「改革」を要求したのである。この政策は宗派内(とりわけ千葉の保守派僧侶たち)の猛反対を呼び、宗派内が紛糾する事態となった。翌1891年(明治24)、責任をとって坂本管長が辞任し、5月には保守派の錦織日航が管長に就任する。ここから保守派の反攻による革新派のパージがはじまる。同月、日生は教務部長を解任され、宗務総監の板垣、法務部長の井村も罷免された。さらに日生は7月に浅草慶印寺住職の兼任を解任される。「日宗新報」397号(明治24年7月28日発行)には、「妙満寺派の紛擾」と題された記事が掲載されており、「近来派内に紛擾を生し異論百出或ハ宗務庁職員の更迭を来し其外種々云ふに忍びざる事あり」と報じられている。日生に対する処分はつづき、同年12月には福島県二本松蓮華寺への左遷命令が下った。病気を理由に転任を断ると、翌年1月には剥牒処分が下され、僧籍が剥奪されてしまう。小林も一緒に僧籍を剥奪され、河野も千葉県片貝村小関妙覚寺に左遷されている。こうして完全に革新派と保守派の形勢が逆転した。
 宗派から追放された小林と日生は、小川・金坂・井村らとともに独自の布教・教化活動を開始していく。さっそく1月に神田猿楽町に「顕本法華宗義弘通所」(顕本法華の「宗義」の弘通所!)を設置した。この弘通所はのちに浅草の蔵前南元町、浅草新福井町へ移転され、「顕本法華宗第一宗義布教所」となる。
 日生たちは弘通所開設の際、全15章34項からなる「顕本法華宗義要項」(以下、要項と略)を同年1月付で発表している。その内容は宗号所由(第一章)からはじまり、伝道相承(第二章)・所依経釈(第三章)・宗旨肝要(第四章)・本門本尊(第五章)・本門戒壇(第六章)・本門題目(第七章)・修法目的(第八章)・所期国土(第九章)・教相判釈(第十章)・本迹関係(第十一章)・正助合行(第十二章)・弘法綱格(第十三章)・処世志願(第十四章)・謗法厳戒(第十五章)からなる。一章では「顕本法華」の宗号の由来を、「釈尊出世の本懐宗祖弘通の元意全く顕本法華の妙旨を宣揚するにあるが故なり」と規定している。また本尊として曼荼羅を指定し、「信仰の統一」のため、「本尊の外は凡て勧請」を認めていない(五章)。さらに「一国の君民皆本宗に帰依する時に至らば最勝の地を選んで大戒壇場を建立す」と、本門戒壇(事壇)を規定し(六章)、教化方法として「折伏の行法に依」ることが明言され(十三章)、「謗法厳戒」(十五章)を強調している。そして「本宗は立正安国の主旨を守り国家の福祉を増進し衆生の善報を発達せしむる」ことを宣言している(十四章)。この要綱には、日生たちの立場が明確に表現されている。
 この年の10月、−−管見の限りでは−−日生の初の著作である「祖師のおしえ」が蔵前南元町の顕本法華宗義弘通所から刊行された。その内容は「開目鈔」や「観心本尊鈔」をはじめとする日蓮遺文を抜粋し、その略解を付すという構成になっている。
 翌年2月には、岡山市内の内山町に「同第二宗義布教所」、11月には「同第三宗義布教所」を岡山市内の津山町に、さらに翌1894年(明治27)10月、神戸市橘通2丁目に「同第四宗義布教所」がそれぞれ開設されている。この翌年、日生が復権する。

街頭布教中の本多上人
(日本橋南槙町大通り)

1)妙満寺派と『仏教各宗綱要』

 1895年(明治28)4月、日生は小林とともに僧籍を回復される。日生の僧籍回復の理由は、「仏教各宗綱要」(以下、「各宗綱要」と略)への妙満寺派の原稿の執筆者として、宗派内で日生を待望する声が起こったことによる。その「復帰の運動」を進めたのが、「本多師と相善き」清瀬貞雄と野口義禅であった。
 ここで妙満寺派の「各宗綱要」の原稿作成の過程を確認しておこう。そもそも「各宗綱要」は、−−前節3(2)で確認したように−−1890年(明治23)6月から7月にかけて創設された仏教各宗協会(以下、各宗協会と略)の一事業として企画された。日蓮門下教団からは、日蓮宗・本成寺派・本隆寺派、そして妙満寺派が参加し、八品派・興門派と不受不施派・不受不施講門派は参加しなかった。
 「各宗綱要」は「日本現流ノ十三派ノ歴史並ニ宗意ヲ世間普通ノ文字ヲ以テ可成平易明鬯ニ叙述シ然ル後ニ欧語ニ翻訳セシムル事」を目的として、同年10月から編集作業がはじまった。編集メンバーとして、島地黙雷(浄土真宗本願寺派)が編集長、釈宗演(臨済宗)・進藤瑞堂(臨済宗)・芦津実全(天台宗)・土宜法龍(真言宗)が編集委員、南条文雄(浄土真宗大谷派)と藤島了遠(浄土真宗本願寺派)が欧文編集委員をそれぞれつとめた(その後、釈と土宜は辞任)。
 妙満寺派では、小林と日生の剥牒処分後、宗務総監の山田日ワが中心となって原稿が作成され、1893年(明治26)7月27日に編集長に届けられた。この原稿は、同年8月28日に「本宗宗義綱要」として刊行されている。しかし、提出された原稿の宗義(教義)の内容は、日蓮宗と「別に大差もない」ものであった。妙満寺派独自の原稿執筆のため、日生復帰を望む声が宗派内に起きる。こうして1895(明治28)年4月、小林と日生が復権する。ふたりによって新たに原稿が執筆され、同年12月10日、各宗協会に再提出された。この原稿は、翌年2月28日、「本宗綱要」として日蓮宗妙満寺派宗務庁から刊行された。
 だが、じつは小林と日生らは、すでに1890年(明治23)10月の時点で原稿を完成させていた。「宗義講究会誌」11号(明治23年8月15日発行)の「時報」欄には、次のような記述がある。
 「管長会議に於て議決せし各宗綱要編纂は九月下旬迄各宗とも悉皆取纏める都合のよし近頃同派に於てハ清瀬貞雄井上完全(井村寛冉か?−筆者註)本多日生氏の三氏編纂員に浦上純哲小林日至の両氏顧問に命せられ此炎暑をも厭はず日夜編纂に従事し居れり」。
 さらに同13号(同年10月15日発行)の「雑報」欄には、「本派綱要編纂成る」の記事があり、「八月上旬の頃より本派綱要編纂委員がこれに打ち掛り居られしか是程漸く脱稿したる」とある。原稿は顧問へ回され、さらに「元老先師」へも回送して「念に念を入れ」て確認されるため、まだ「余程の日子を要する」ことが報じられている。しかしこの後、小林と日生は僧籍剥奪を受けるため、この原稿は山岬の原稿に取って代わられる。だが最終的には、小林と日生によって原稿が執筆されたというのが、その作成過程である(なお、最終原稿と最初の原稿との異同は不明)。
 小林・本多[1896]の内容構成は、以下の通りである(当然、「各宗綱要」の書式に依拠している)。「第一部 史伝部」と「第二部 宗義部」にわかれ、後者は所依経釈・宗名解釈・教相判釈・総明宗義・開権顕遠・一念三千(其一・其二・其三)・三大秘法・行者安心・所期国土・修法方軌・宗教五綱・摂折二門・四箇格言・処世志願・謗法厳戒の全17章からなる。この原稿は規定枚数を超過しているため、縮小することを求められた。妙満寺派側はこれに応じ、構成は変えずに文章を短くし、1896年(明治29)2月21日に再々提出した。この中の「四箇格言」の内容が大問題となり、いわゆる「四箇格言問題」が発生する。

統一団の結成

2)「四箇格言問題」と統一団の結成

本多上人が削除された項目を復し刊行した『本宗綱要』

 1896年(明治29)8月1日付で妙満寺派に送付されてきた「各宗綱要」の見本版において、原稿の中の「所期国土」「四箇格言」「謗法厳誡」の3章が削除されていた。この「各宗綱要」は見本版通りに、「所期国土」「四箇格言」「謗法厳誡」の3章の部分が削除されたまま、同年8月12日に出版される。見本版において削除を発見した妙満寺派側は、「四箇格言」と「謗法厳誡」の2章(正確には「所期国土」も)を削減した理由を問い尋ねる質問書を各宗協会へ提出し、2章の編入を求めた。しかし島地と蘆津は8月27日付をもって「貴宗綱要中四箇格言の一題除去の義は」「編者綱要編纂の責任に当て該問題の如きは各宗協会の成立を妨害する者と認むるを以て之を除去致したる者に有之候」との通達を、妙満寺派管長代理の本多日生宛へ送付し、編入を断った。とりわけこの「四箇格言」は、各宗協会の規約第三条の「本会は各宗の宗義宗制を妨げざる限りに於て協同提携し相共に興隆の進路を取て運動するを目的とす」に抵触したとされる。なお、会長の大谷光尊も9月中旬にこの問題を編輯委員から聞いて、編入の拒絶を承認している。ここに「四箇格言」の削除をめぐる四箇格言問題が発生した。
 10月12日、妙満寺派側は削除部分の編入を求めて、板垣日暎管長(この年の4月に管長に再任)を原告とし、会長の大谷光尊と編集メンバーの島地黙雷・芦津実全・進藤瑞堂に対する訴訟を起こした。訴状において、妙満寺派は「抑四箇格言なるものは日蓮宗破立の教義にして謗法厳戒とは正法に異背せさることを訓戒したるものなれは原告の宗派に於ては最も緊急なる宗意にして之れを省略するに於ては宗意の大本を失するに至るへし」とのべる。つまり妙満寺派は、「四箇格言」に見られる他宗批判において自らの宗派的アイデンティティを確保している以上、他宗との「宗義宗制を妨げざる限りに於て」の「協同提携」は最初から困難であったのである。この点は清瀬や井村によって主張されていたわけであるが。
 11月17日、京都で仏教各宗協会の臨時大会が開催され、この問題に対する対応が討議された。「日蓮宗妙満寺派綱要中四箇格言の一題は之を削除するを可とす」、また「仏教各宗綱要は当分妙満寺派綱要を除去したるものを発売せしむ」という議案が提出され、いずれも最多数をもって議決された。なお、日蓮宗と本成寺派・本隆寺派は妙満寺派を助けて「四箇格言」は除くべきではない、との見解をのべている。実際に妙満寺派のページは、同年12月25日の訂正3版をもって「各宗綱要」から削除されている。
 この問題は、妙満寺派以外の日蓮門下教団にも波及した。たとえば「日宗新報」610号(明治29年9月28日号)の「社説」では、「妙満寺派と各宗綱要/(四箇格言は破立の公道なり志士夫れ奮起せよ)」と題して、妙満寺派を支持する見解を提示している。以降も断続的にこの問題に関する記事が掲載されていく(とりわけ「日宗新報」編集長の加藤文雅は、積極的に妙満寺派の活動を支持した)。
 この事件に対する妙満寺派の中間報告書ともいうべき「日蓮大聖人献身的之大問題 仏教界目下之大訴訟」が、この年の10月23日に刊行された。この中で日生は「本問題の運動方略及び希望」として、日蓮宗と本成寺派・本隆寺派をはじめとする日蓮門下の僧侶たちと連携し、東京府下各地に「大演説会」を開くこと、また11月10日に東京地方裁判所で開催される口頭弁論に信徒を動員し、この問題を社会的にアッピールすることを提起した。
 さらに次のように宣言する。
 「妙宗統一団なるものを発表し同宗各派角上の争を去て日宗統一の大業を企図し諸宗の人法を折伏摧破して一天四海皆帰妙法の祖判を全ふし立正安国の実を明治の聖代に観んとす本問題の希望実に茲にあり」。
 ここにおいて、統一団の結成が主張された。さらに「妙宗統一団設立の主意を陳へて各派の志士に檄す」という檄文が掲載され、巻末には「妙宗統一団規則」(以下、規則と略)が掲げられている。この規則を通じて、「妙宗統一団」(以下、統一団と略)の基本的性格を確認しておこう。
 統一団は、「内妙宗各派の教義を比較的に講究し其旨帰を統一するを務め外権実起尽の旨義を発揮し各派の団結力を以て権門の淫祠教徒をして再び社会に立つ能はさらしむる」ことを目的として、「妙宗各派の道念堅固なる僧俗」から設立された。団員は妙満寺派僧侶が中心で、妙満寺派の信徒も参加していた。運動の方法として、比較講究会の開催・雑誌の発行・演説会の開催・各派共有の一大教堂の設立などが規定されている。
 上記の「運動方略及び希望」にあるように、「日宗統一」と「諸宗の人法」の「折伏摧破」による折伏の強調が、統一団の基本方針であった。つまり統一団は、さかのぼれば宗義講究会の活動にはじまり、この四箇格言問題を契機として発足したといえる。はっきりとした折伏重視の宗教的パースペクティヴに依拠し、日蓮門下教団の統合(とさらに仏教の統一)を目的として結成された組織であった。教団改革を実行した日生を中心とする妙満寺派の革新派僧侶たちは、宗義講究会に集まり、今また統一団に集結した。日生たちの日蓮門下統合運動の起点が、この統一団の設立にあったことを確認しておこう。
 なお、統一団の正式な団結式は、12月13日、東京の江東区の井生村楼で挙行された。日生、小林や清瀬を中心とする妙満寺派の有志たちが集まった。機関誌「統一団報」も翌年1月に創刊され、当初は月2回刊行された(9月から月刊化。1902年10月に「統一」に改称)。