浅草統一閣と統一団

本多日生上人統一団略年譜

<詳 細>

「近代日本の日蓮主義運動」

財団法人統一団の淵源は明治・大正・昭和の三代を駆け抜けた顕本法華宗(妙満寺派)管長・本多日生上人の門下各派の統合への活動にその源を発します。
 本多日生上人は慶応3(1867)年3月13日、播磨国姫路(現在の兵庫県姫路市)に姫路藩士・国友堅二郎と勝子との間に次男として生まれました(幼名長二)。幼くして母方の檀那寺である姫路市内の妙善寺(日蓮宗妙満寺派)の本多日境に仕え、姓を継ぎました。小学校卒業後、同市妙立寺の池田日昌のもとで得度、「聖応」と号しました。日昌亡き後、岡山県津山本蓮寺の児玉日容のもとで日什教学を学び、原泉学舎で西毅一から漢籍を学びます。18歳で大阪府堺市の妙満寺住職に任命され、1886年(明治19)に上京し、翌年、私立哲学館(のちの東洋大学。この年の九月に開校)の第一期生として修学しました。
 日生上人は仏教教義を深く学ぶ一方、井上円了の開いた哲学館に学びドイツの哲学者ハルトマンの『宗教哲学』を熟読するなど西洋哲学と東洋哲学の双方を学び、西欧思想に対し力強く仏教思想の優位を主張します。その教学の基本姿勢は本仏中心の教学の確立です。すなわち、教え(法)とそれを示す仏について、解析のために二者を分けて考える議論もあるが、法華経の本門の立場においては、法と人(釈尊)まったく一体のものと考えるべきで、仏に法を観じ、法に仏を観じるように、法も人も唯一の真実を顕わす本仏の働きと観るべきとし、法華経の本門に明かされた久遠実成の本仏こそ信仰・実践の唯一の中心であり、あらためて門下はこの立場を確認し、教学・理論の再構築と布教の実践に励むべきことを主張します。
 その強い意志、門下は激動の世界に一日も早く近代的宗門を実現し社会に奉仕すべきとする諸改革、その使命感と行動力、これが明治・大正を駆け抜けた教傑本多日生上人の教学姿勢であり、雑乱勧請撤廃・門下統合への諸改革の原動力であったといえましょう。
 さて、明治17年8月11日、太政官布達19号によって、仏教各宗の教導職が廃止され、これによって、これまで本山制や本末関係・法類関係にもとづいて管理・運営されていた各教団は、近代的な教団形成を開始していくことになります。
 ちなみに日蓮宗(身延派)でも明治18年5月に宗制寺法が施行されたわけですが、教団の中央集権化をめぐって大紛争が惹起しました。この日蓮宗内の「革新・保守両派の抗争」は、明治25年までつづく大紛争となりました。結局、革新派が敗北し、日蓮宗の中央集権体制の樹立は挫折しました。時を同じくして門下第二の勢力を誇る妙満寺派においても、近代教団制度の形成に向けた「革新・保守両派の抗争」が生起しました。
 明治21年9月13日、京都の妙満寺派学林長をつとめていた39歳の河野日台上人を筆頭に、白井日煕・横溝日渠・本多日生・山本日康・成島隆康・井村寛冉・小川玉秀・野口量印・松本日新・笹川日方の各上人の連名で、宗派改革の請願書が管長の板垣日暎上人に提出されました。
 請願書の内容は、「学事制度に関する意見」「布教方法に関する意見」「宗務組織に関する意見」「財務整理に関する意見」「公会開設の意見」「資格確定に関する意見」「賞罰法度に関する意見」「教式制定の意見」「住職進退に関する意見」からなる9項目2万7000字におよぶものでした。
 その請願書の末尾には、「派内ノ実況ヲ比照シ、速ニ公会ノ開設ヲ布達」することを請願していますが、これを受け、板垣管長は同年12月18日付で、「漸ク世ノ進化ニ随ヒ得失一準ナラス因テ宗規ヲ改良シ興学布教旺盛ラナシメンカ為明治二十二年五月ヲ期シ一派会議ヲ開ク」と宗制改革のため公会開催を宗派内へ布達しました。
 こうして、翌明治22年5月28日から7月8日まで日生上人ら宗制原案起草委員会によって起草された原案(改革案)にもとづき、浅草慶印寺で妙満寺派の公会が開催され、8月27日の内務省の認可によって、新しい宗制が9月1日付けで宗派内に布達され、妙満寺派は教団制度の改革に動きだしました。
 改革派はこの新宗制のもと大学林や宗務支庁などの宗派内の重要機関を千葉から東京へ集中させました。さらにこの年11月の人事移動では河野が大学林長、白井が本山部長、日生上人は24歳の若さで教務部長に任命されました。

この年末、日生上人たちは新宗制にもとづき、雑乱勧請の廃止(僧職者に迷信・俗信に対する毅然とした態度を求める)と本尊の統一(大曼荼羅一体か三宝式)を宗派内に指示しました。当時、什門の諸寺院でも、本尊とは別に薬師如来や鬼子母神を勧請し、これらの、いわば御利益信仰で経営を行っている寺院も少なくありませんでした。日生上人たちは、その「改革」、すなわち停止を要求したのです。この政策は宗派内の旧寺院勢力の猛反対を呼び、宗派内が紛糾する事態となりました。翌明治24年、責任をとって坂本管長が辞任、5月には保守派の錦織日航が管長に就任し、同月、日生上人は教務部長を解任され、宗務総監の板垣、法務部長の井村も罷免されました。さらに日生上人は七月に浅草慶印寺住職も解任されました。日生上人に対する処分は続き、同年12月には福島県二本松蓮華寺への左遷命令が下りました。日生上人が病気を理由に転任地へ赴かずにいたところ、翌年1月には剥牒処分、すなわち僧籍を剥奪され門派から追放されるという処分が下されました。この時の処分は改革派の多数に及び、日生上人の叔父の小林日史上人も僧籍を剥奪、辛うじて宗門に留まることを得た河野上人も千葉県片貝村小関妙覚寺に左遷され、後に大陸布教を命じられ、彼の地で病を得ることになります。
 一方、宗派から追放された小林上人と日生上人は、小川・金坂・井村の各上人とともに盛んな布教・教化活動を開始します。さっそく1月に神田猿楽町に「顕本法華宗義弘通所」(顕本法華の「宗義」の弘通所)を設置しました。この弘通所はのちに浅草の蔵前南元町、浅草新福井町へ移転され、「顕本法華宗第一宗義布教所」となります。 翌年2月には、岡山市内の内山町に「同第二宗義布教所」、11月には「同第三宗義布教所」を岡山市内の津山町に、さらに翌明治27年10月、神戸市橘通二丁目に「同第四宗義布教所」がそれぞれ開設されています。この翌年、各宗協会による『各宗綱要』の原稿執筆のため日生上人が復権します。すなわち、時局の要請で各宗協会が組織され『仏教各宗綱要』編纂が行われ、日生上人は「妙満寺派綱要」執筆のため請われて僧籍に復され、その任に当たることになりました。しかし、その編纂にあたって、各宗協会側が一方的に提出原稿から「四箇格言」など3章を削除したことに対し、いわゆる「四箇格言問題」が惹起し、彼は日蓮門下に呼びかけ共に削除の不当性と門下の活動の協調を呼びかけ、宗義の講究と門下統合の道を求めて僧俗門派を越えた組織の必要を感じ「統一団」を結成、浅草清島町新盛泰寺境内に広く勧募を求め一般布教道場・統一閣を建設し、団報『統一』を創刊、活発な宗義講究の論壇を形成します。この統一閣における講演には著名な学者や文化人が講師に招かれ、数千の聴衆を集めて盛んな布教活動が展開されました。
 日生上人はこの間、宗務総監に就任し、顕本法華宗という宗名の公称許可を得て、明治38年には39歳の若さで管長に当選、以後21年間宗門を統率しました。その間、布教伝道・社会教化・門下統合に尽力し、一般社会に日蓮主義を弘めるために、明治42年天晴会を組織、女性のために地明会を、さらに浅草に一般布教講演道場として統一閣を建設し、軍人、政治家、名士を信徒にして積極的に社会に働きかけ、大正期労働争議が起こるや労働者善導のため、自慶会を創設、社会問題に対応するため知法思国会を起こして共産・無政府主義に対しました。また大正11年には、門下に呼びかけ「立正大師号追謚」を実現し、門下の統合へ大きな一歩を踏み出しました。
 日生上人は大正15年に管長職を退き、統一閣を退き自坊・品川妙国寺で社会教化に力を注ぎますが、昭和四年頃より徐々に体調を崩し、後事を託すべく直弟の僧俗十名をを集め「同師会」を結成します。翌5年10月に門派僧俗を越えて門下の力を結集する「統一団協賛会」の計画に着手し、同6年1月には役員・会則を定め財団認可申請へ踏みだしますが、同年3月、俄に病状がきわまり、16日、65歳の生涯を閉じました。
 日生上人は激動の明治・大正期を代表する仏教界の最高指導者であると共に、当時の日蓮門下を代表する不世出の傑僧といわれ、日蓮主義の伝道と社会教化に大きな功績を残し、その影響は田中智学(1861〜1939)と並んで、日蓮教団はもちろん近代日本社会に大きな足跡を残しました。
 その著作は明治25年創刊の『宗義講究会誌』、30年創刊の『統一』誌主宰及びの多数の執筆をはじめ、『大蔵経要義』『法華経講義』『日蓮聖人訓要義』『本尊論』『日蓮主義綱要』など、刊行物200余、諸論掲載は500、まさに等身大を越えました。
 その後、統一団は本多上人の遺志を継ぎ昭和7年6月に財団認可を実現、初代理事長となった上田辰卯氏の寄進で昭和8年2月、新たに文京区音羽に土地建物を取得し、本多上人の近くに仕えた磯部満事氏はじめ同師会のメンバーが『統一』はじめ本多上人の諸著作の刊行などを継続しますが、顕本法華宗宗務庁は宗派僧員による『統一主義』を創刊し「立正統一団」を組織し財団認可、これにより本多上人門下は別行動を辿ることになる。日生の組織してきた日蓮主義運動はその遷化を境に解体していくことになる。やがて、日本の戦況悪化により「立正統一団」とその機関誌『統一主義』は活動を停止、当財団も戦況のきわまった昭和十九年一月に同師会の中枢であった和賀義見師が第二代理事長に就任するも、20年3月の東京大空襲で会館資財のすべてを失った。以後和賀理事長が東京滝野川の自坊に本部を移し、財団活動を継続し、併せて本多上人の業績の顕彰・護持に努め、一時発行が中断していた『統一』誌を和賀正道(現第五代理事長)が身延山に本多上人の業績顕彰のために銅像を建立した際の寄付者を対象購読・賛助者として復刊、主に門下僧俗に向け発行頒布を継続してきました。
 近年、音羽会館跡地前の道路拡幅工事に伴い、土地の一部を売却、その資金をもって平成4年10月にかつての本部・音羽一丁目に会館を再建、基金造成を図りつつ、財団活動の充実、諸研究・助成などの活動を行っています。


浅草統一閣(戦後)


浅草統一閣と日蓮宗宗務院


 日生上人の活動の拠点となった統一閣の建物は終戦後から昭和39年まで、日蓮宗宗務院として供され(27年に日蓮宗に譲渡)、池上移転までの19年間、活用されました。戦前の日蓮宗の僧侶の多くは「宗務院」のことを「統一閣」と慣用的に呼んでいたほどです。その経緯について、昭和56年に日蓮宗宗務院から刊行された『日蓮宗事典』の「日蓮宗宗務院」の項中に次のような一節がありますので、参考までに掲げておきます。


浅草統一閣と日蓮宗宗務院

街頭で演説する本多上人(昭和4年)

浅草統一閣

『日蓮宗事典』793頁2段後2行〜3段13行4字/「日蓮宗宗務院」項中/統一閣関連記述/引用

(本文前部略−)戦後は旧顕本法華宗盛泰寺跡の本多日生上人を始め、旧顕本の関係者が布教伝道に活躍した「統一閣」を借り受け「日蓮宗宗務院」を開設した。所在地の北清島町は浅草、上野に近く、便利な場所にあったので、昭和二七年、二本榎の旧地を処分し「統一閣」の譲渡をうけた。大修理を行い装いを新たに、一〇月八日薩師の本尊を奉掲して奉告式(増田日遠総監)が行われた。統一閣の買収費は土地建物をふくめて三〇〇万円、修理費及び調度品代をふくめて約三〇〇万円計六〇〇万円を要したことが記録されている。その後老朽建築物(関東大震災直後、明治末期の劇場を移築)であり、設計的にも不適当であることから改築の要に迫られ、日蓮宗ビル建設委員会が設置されて多面的な検討が加えられたが、資金難その他の理由から現地に再建の実現は困難となった。昭和三九年本門寺貫首(伊藤日定)の了解も得られたので第一五臨時宗会の議を経て、池上の現在地(東京都大田区池上)への移転を決定し、現地(浅草北清島町)処分金をもって新庁舎を建設することになった。日蓮宗宗務院庁舎建築委員会が設けられ諸般の計画が進捗し、翌四〇年予定通り竣工したので、池上山上の仮庁舎を払い一一月二七日盛大な開庁式が営まれ、爾来この庁舎において宗会などの大会議を含め宗務全般が行われている。なお北清島町の庁舎及び土地の売却に関し、第一五臨時宗会は前所有者である盛泰寺と什師会の理解と協力に対し、感謝状を呈し宗門もまた金一封を贈呈し、貴賓室には本多日生上人の法勲を賛える画像が掲額されている。なおこの間、宗本一体、総監制の第一回参与会(昭和二六年八月三一日)において、宗憲を改正し「本宗の主たる事務所を日蓮宗宗務院といい、これを祖山に、従たる事務所を日蓮宗宗務院東京事務所といい、これを東京都に置く」を、昭和二九年の宗本分離に至るまで約二年半実施された。実際には主たる宗務は北清島町の東京事務所で執られていた。このことを特に付記する理由は、宗教法人法附則第五項の規定による宗教法人「日蓮宗」の極めて重要な設立公告が、昭和二六年一一月一日 設立者 山梨県南巨摩郡身延町三五六七番地、宗教法人「日蓮宗」主管者増田宣輪で行われていることを理解するためである。