※以下の内容は財団の資料担当がかつて執筆し『福神』8号に掲載された原稿に増補・訂正を加えたものである。
掲載の趣旨はここに取り上げた遺物によって、誤った歴史認識が広がらないよう、また六老僧蓮華阿闍梨日持上人の事跡がかつての戦争の時の日本人の思いとまざり合って、変質することの無きよう願うものであることを申し添える。
●はじめに
ここでは、旧満州南部に位置する宣化に埋納されていたとされ、大陸から持ち帰られたとされ、近年、身延山久遠寺宝物館に献納され所蔵・格護されている伝・六老僧蓮華阿闍梨日持上人の遺物として伝えられている九点の品々に対する疑義資料の概略を記す。
この遺物とされる品々の関連資料収集及び解析に関連して、法華各宗・諸系統の戦前・戦中の雑誌を検索することになった。今回、この報告を行う者も、これに十五年の時間を費やしてきた。さて、この作業を継続していくのに一つの技術的な困難がある。それは、これらの研究・調査に携わった者の多くが、最初に乗り越えなければならない、ある感覚がある。
すなわち、今ではほとんど使われることが無くなった表現、つまり戦時色に塗り込められた誌面の持つ独特の雰囲気に対する嫌悪感である。なじめない言葉で修飾された情熱、古本特有の紙のにおいである。そして、やっと手に入れた原本の紙質の悪さと、頁の間からこぼれる錆びたホチキス片、そこからは微かに血のにおいがするような気さえしてくる。しかし、そんな作業を続けるうちに、おぼろげながらではあるが、研究者はあの時代の空気を感じるようになっていく。
日本の敗戦を境に訪れた新しい時代からあの時代を見る時、暗い地平を静かに蛇行する黒い川のイメージが浮かぶ。敢えて美辞をもって表現すれば、星を映さぬ黒い川だ。満天の星空の下、黒く静かに流れる川。かつて幾億もの煌めく才能と希望と野心の輝きを宿したであろうその川は、悲しみと絶望の満々とした黒い水を湛えて、新しい時代と消え去ろうとしている時代を隔てている。そんな川のイメージである。
さて、こうした調査を継続していくうちに、私たちはその黒い川の対岸に一人の僧侶が立っているような気がしてきた。むろんそれは研究者が見る、あの黒い川のイメージから照射した幻である。蓮華阿闍梨日持上人、永仁三年、日蓮聖人の十三回忌を修した後に、大陸への妙法弘布の誓いを胸に、遠く異域に旅立ったと伝わる六老僧日持上人である。その遺蹟とされる地への踏査は、主に明治以後さかんに行われ、なぜか日本の大陸侵略の硝煙と軍靴の響く地に重なるように発見された。それは今思えば決して偶然などではなかった。
凍てつく黒竜江で、硝煙と黄砂に煙る内蒙古で、遠く故国を離れ王道楽土建設を夢見た人々に、大願を胸に異域に消えた日持上人の物語は、ある時は己の境涯と重なり、ある時は渇仰の対象となって去来し、彼の地に日持上人の幻を呼び寄せたにちがいない。
大陸の日持上人伝説は、あの時代を生きた日本人の共有する感情に直に響いたにちがいない。そしてあたかもいのちあるもののように、異域にあって郷愁に揺れる魂を癒し、励まし、人々を幻の理想郷建設へ導いてくれるように見えたのだろう。
当時の人々にとって、そこには何ら作為や悪意の介在など感じ得るはずもなく、また存在もしなかったと思う。ただ、一部の人々の中には、こうした日本人が共有し得る感情を喚起する物語を利用し、自己の栄達と夢の実現に使おうとした者があったに違いない。しかし、そうした批判を広く受けるのであれば、あの時代の日本人の殆どが、一歩外から見れば同様に映ったことであろうし、また、これは日蓮宗の周辺だけのことではなく、他の宗派も多かれ少なかれ、同様の所業を大陸で為していたことは、近時の外国の研究者が指摘するところである。
ここに身延山久遠寺蔵伝・日持上人宣化出土遺物に関する疑義資料を紹介するが、もとより本稿の目的は批判ではないことをおことわりしておく。この指摘事項の紹介によって、今まで遺物を護持され、献納され、また信奉された方々のお気持ちを批判する意図は本来無く、また研究者自らがそうした批判を行うべき立場にないこと、さらに遺物に関わった方々には誠実な方も数多く、その真摯な姿勢に敬意を表すべきものと認識していることをご理解賜りたいと希っている。
すべては、あの黒い川に流れている。その流れからひとつひとつ真実をすくい上げ、百余年間にわたる日持上人伝説と大陸での戦争の関わりを解き放ち、持師の法薫を新たな視点から問い直す日が来ることを希っている。ここに遺物の問題点の指摘の概略を記し、謹んで六老僧蓮華阿闍梨日持上人の法薫に捧げるものである。まず、以下に宣化遺物の身延山献納前後の経過について、平成14年秋に発表された報告から抜粋して掲載する。
「星を映さぬ川」
昭和六十一年の十月、一本の電話が東京池上の日蓮宗新聞社にあった。青森の日蓮宗寺院の佐藤拓温師からのもので、内容は〈宣化の日持上人遺物が出土したと伝わる立化寺の古塔の写真を入手した、しかしこれら遺物は前嶋論文で肯定されるもいまだに真偽未決の遺物であり現在遺物も誰が持っているか行方不明である、しかし青森の写真家が、現在、中国の軍事施設内に所在するその塔の写真を最近入手し地元紙に前島説のみの背景をもって発表し、その後になされた真偽論に配慮ない説が広まる恐れもあって苦慮している、そこで、そちらの新聞に私の記事を掲載し、地元の人に正しい認識をもっていただきたいと思うので記事を書きたい、掲載してもらえないか〉との内容であった。
年末の新聞の繁忙期をひかえ、通信員からの記事の不足に苦慮していた時期でもあり海外の話題として良い記事になると判断した私は、快諾し早速、紙面に載せるべく用意をしはじめた。数日後、佐藤師からの原稿がきた。記事は原稿用紙二十五枚以上にもわたるもので、私はそれを新聞の第二面トップに取り上げるべく、佐藤師からの話を総合しながら、記事につけるリード文を書きはじめた。十一月二日か三日の午後六時頃だったと思う。突然、一本の電話が鳴った。長岡の八木不動産の社長をされている八木敦氏からのもので、〈私は中国の宣化というところで発見された日持という高僧の遺物を持っている、最近新興宗教のものがこれを買いたいといってきて困っている、私としてはこの大切な遺物を日蓮宗のしかるべきお寺にお納めしたいのだが、仲介をしてくれないか〉との旨である。
私は当時編集部長を兼務していた専務に相談し、取敢えず写真を送ってもらうことにするが、真偽未決の遺物を関係機関にすぐには紹介は出来ない、しかしこちらで検討し確実なものが出てきたら勿論、紹介の労は厭わないと言い、資料ともども送ってもらうことにした。
私はこの時、佐藤師あるいは青森の写真家と八木氏はなんらかの関係があるものと思っていた。そこで私は佐藤師にこの件を連絡した。しかし、佐藤師の反応は意外なものであった。
「是非、その人を紹介して欲しい、私はかつての前嶋信次先生の著作やそれに対する疑問点を発表した高橋智遍氏の論文等を読み、ずっとこの遺物を調べてきたが、まだ実物を見たことが無い、絶対にご迷惑をかけないから、なんとか教えて欲しい」と言う。当方としては基本的にニュースソースを明かさないという責任がある。またこの場合は何か訳ありの様子である。そこで「残念ですが教えるわけにはいきませんが当方で調査の上、確実ならばご紹介しても良いのですが」と答えた。しかし、なおも佐藤師は「是非とも」というお話であった。私はその熱意をまったく無碍にすることに躊躇し、つい「長岡の不動産屋さんなんですよ」とだけ漏らしてしまった。
佐藤上人の執筆した記事は十一月二十日号の二面に掲載された。私は掲載紙を佐藤師と八木氏に送った。程なく八木氏から前嶋論に登場する九点すべての鮮明な写真が届いた。私はこのことを佐藤師に報告し、専務に関連記事として所有者を隠して紙面に取り上げたいと言った。しかし、これらの遺物は戦争の影があるとの説もあり、もう少し時間をおけ、と止められてしまった。
私はこの時、これらの遺物の紹介当時からの真偽論についてまったく知らず、このうち何点かは本物にちがいないと思っていた。ましてや先の大戦時の影を宿したものである可能性が高いことなど思いもよらないことであった。
これは、後で知ったことだが、佐藤師は後日、私の「長岡の不動産屋」の言葉だけをたよりに電話帳簿を取り寄せ、その地の不動産屋に次々と問い合わせて、八木氏の所在をつきとめ、八木氏の所へ赴き遺物を実見し遺物すべての写真撮影を行い、高橋師等の諸指摘の確認と後に大きな疑問資料となる花押に重ねて押された象形印のかすかな痕跡にも気づいていたのである。
それから、一年間は私の所ではこの遺物に関しては何事もなくすぎていった。私も八木氏所蔵の遺物の掲載について専務に再度提案することもなく、また、さしたる調査もしないでいた。しかし、この間にこれらの遺物をめぐる状況は激変していたのである。つまり、所有者の移動と、新たな所有者の善意による身延への献納である。
◇ ◇
右の身延献納前までの経過報告は、平成四年の六月頃に作成したものである。日持上人のご遠忌をひかえ、持師の遺蹟の顕彰の気配を憂慮して関係各所への調査資料に添えたものである。次に、身延への献納の話を知った以後の経過の概略を記す。
◇身延献納前後
八木氏からの連絡からちょうど一年ほど経った頃だったと記憶している。私は宣化遺物の掲載について、再度八木氏に連絡をした。当時、遺物の掲載に難色を示した専務も退職され、私は編集部から完全に出版部に移籍し、何より私はまだ、これらの品については様々な指摘もあるが、何点かは本物の可能性もあると信じていたからである。しかし、八木氏からの返事は意外なものであった。「あの遺品については身延山に納まることになったので、私の手元には無い。身延山に問い合わせるように」とのことであった。
私はすぐに佐藤師に連絡した。佐藤師は非常に驚愕されている様子で、すぐに一通の資料を送付して来た。昭和十年発行の『大亜細亜人』という雑誌のコピーだった。そこにあった日蓮聖人の画像の挿し絵を見た時、私は大きなショックを受けた。それはあの宣化遺物に「御聖師御遺影」として描かれている画像とほぼ全同、いや、逆に遺物の画像がその画像の写しとしか考えられない挿し絵と、その対向面には高橋智遍師が首題の筆致の酷似を指摘した「衛護本尊」が掲載されていたのだ。
この「衛護本尊」は蒙古調伏の本尊とも呼ばれ、後の資料検索で分かったことだが、大正初期に皇室献納をめぐり偽作論争があり、後に満州の厚和の寺院に奉掲されたものである。送付いただいた『大亜細亜人』の記事はその奉掲の意義を讃え、大陸布教の先駆となった日持上人の徳を讃えたものである。発行人は後に蒙古開教監督に任じられ(昭和十四年六月)、遺物が発見された宣化にほど近い張家口に「立正興亜道場」(昭和十七年)、翌年には「宣化立正興亜道場」を開場している高鍋日統上人である。
私は焦った。しかし、身延への善意の献納とあれば、新聞は「真偽未決」との表記を付してはくれるだろうが、その性格上、大きく紹介せざるを得ない。また当時、それを敢えて止めるべき確たる基礎資料の所在を知らなかった。佐藤上人も東北のご寺院のお立場があり、これ以上の関与はご迷惑がかかる。身延献納後、私は仕事の合間に暇を見つけては資料を検索し、関連する資料が出るごとに諸先生に複写を渡してはご意見を聞くという作業を続けていた。あの遺品についてはもう一度正確な姿を紙面で紹介すべきと考えていたからだ。あの遺物はすべて近代人の手によって作られたものなのか、もしそうであれば誰がどんな目的で作ったものなのか。逆に何点かは本物で後世に偽造品を加え補強した可能性もあるかもしれない、出来ればそうあってもらいたい。もしそうであるなら、どれが本物で残りの偽造品は誰が何の目的で作ったものなのか。しかし、私の希望に反して遺物肯定の要素は調べれば調べるほど、専門の先生に聞けば聞くほど減っていった。私は自分が何の目的で資料検索しているのか分からなくなった。しかし遺物は身延に献納され、ある意味では安心である。調査の時間はふんだんにあると思っていた。しかし実は、悠長に資料検索をしている時間など無かったのである。
これは気が付くのが遅かったのだが、数年後、平成六年一月一日は日持上人の七百遠忌のご正当であった。身延献納で関心の高まった宣化遺物について、恐らく顕彰を発願するご寺院もいらっしゃる。佐藤師が言ったように、あの遺物はいろいろな方々の善意と縁によって身延に奉納され、真偽未決のまま安らかに眠るものと安心していた。しかし、中国に顕彰碑が建てられた場合、後に必ず調査する中国の方もあるに違いない。そこで一連の戦中の資料群との付合が指摘された場合、顕彰に携わった方々の善意、そして日持上人の法薫がかつての戦争の悲惨と混同され、謂われのない批判にされる可能性は高い。
戦中の日本の資料は多く中国に残っているという。事実、奇しくもこの不安を感じてから程なく、外国から一通の資料要請があった。ボン大学日本文化研究所所長・パンツァー教授からのもので、当初は池上本門寺への資料請求だったが、当方の資料検索を知った方が、回答をこちらに依頼した。先生のお尋ねのことは〈自分の研究所の博士課程の学生にモンゴルの方がいる。高鍋上人やモンゴルに渡った日蓮宗の従軍僧、また高鍋上人が日本に連れてきたモンゴルからの留学生の消息や日本語教育における交流について調べている、その件について知っていることがあれば教えて欲しい〉とのことであった。私は必要事項を書いてパンツァー先生に送った。続いて先生のお話にあったリ・ナランゴアさんから丁重な同様の問い合わせの手紙が届いた。
このようなことなどがあって、未だ不完全ではあるが、何とかご遠忌事業が本格化する前に、検索資料を遠忌事業、調査問い合わせの窓口となると思われる関係各方面に事情説明の上、配布する必要のあることを痛感した。この時、当方の説明の窓口になった方々、諸先生方は、実に当方の要領を得ない説明を根気よく誠実に聞いてくれたと今でも感謝している。
◇
以上が身延へのご遺物献納からほぼ五年間の経過の概要である。その後の経過の詳細は略す。
なお、現在までの関係資料の詳細については、第一に佐藤上人はまさに身を切られる思いをもってこの遺物の先後を見守ってきた方だと認識している。さらに、高鍋上人に関しては川添昭二先生、また先生のもと「『太宰府市史』編纂室」で同誌の編纂を行っている藤岡健太郎氏が詳細に資料検索をされている。また、西夏文に関しては、前嶋論の発表以後、いち早く遺品中の西夏文経典に関する指摘を行い、本稿でも調査報告を紹介させていただいた京都大学の西田龍男先生の研究成果および先生の研究を継ぐ松澤博氏が詳しい。また中尾堯先生には、遺物の文書全体にわたって、折りあるごとに正確にその矛盾点を指摘していただき、的確なご助言を賜ったことを本稿後半、遺物への指摘の紹介の前に記さなくてはならない。また、本遺物について文献学の立場から鋭い指摘をされ『日持上人研究』(師子王文庫/昭和五十年)を著した東洋大教授・故高橋智遍師の優れた研究があることも忘れてはならない。
◇予測の甘さ
話はそれから十年ほど後に飛ぶ。
平成十二年、講談社から「日本の歴史」シリーズが発刊された。大手出版社から全二十六巻という久々の本格歴史シリーズの発刊とあって、新聞各紙にも連日広告や企画掲載が続いた。監修の網野善彦先生は名実ともに現在の日本を代表する歴史家である。早速、書店で網野先生が執筆した同シリーズ00巻『日本とは何か』を購入し、少し読み進んだ時、驚くべきものが目に入ってきた。
同書五十九頁に「北方から大陸に渡った僧」とあり、以下六十三頁まであの宣化出土遺物が写真入りで掲載され、網野先生はその遺物を列島の北方との交流を証明する典拠の一つとして稿を進めていたのだ。
私は自分の無力さを嘆いた。あれだけ遠忌前後にわたって諸先生に資料を渡し、説明の必要を感じては分を超えて説明も試みてきたつもりだった。事実、宗内の各方にはご理解を戴き、持師のご遠忌に際する彼地の顕彰については慎重な配慮がなされたものと安堵していた。しかし、それは違った。それはあまりにも狭い了解であり、一歩外に出て社会に対する時、あまりにも徹底さを欠いた了解で責務を果たしたと安堵していたがために、このような事態が起こったのだ。
あらためて十年前のご遠忌に際して中国の彼地への顕彰について慎重な対応をお願いしていて良かったと思うと同時に、各方面で高い評価を受けている網野先生に申し訳ないと思った。また、網野先生があれだけ明確に典拠に引いているものであれば、将来、教科書などにも紹介される可能性すらある。これは後で知ったことだが、何かの手違いで、遺物の図録が先生に渡された経緯があったものらしい。その経緯については述べない。私はたじろいだ、そして自分の無力さと予測の甘さを嫌というほど噛み締めた。
私はかつて、あの遺物の疑問点に気づいた際に、各方に資料を配り、説明を試みた。しかし、いくつかの理由で、その事実の公開を迫ったり、自ら進んで執筆することは正しくないと思っていた。その第一の理由は、あの遺物全体に悪意のようなものが感じられず、不用意な公開はかえって持師の大陸布教の伝説とロマンが生み出すプラスの力全体にも影響する可能性があること。第二には、遺物の護持・献納に関わった方々の善意である。特に献納された方はかつて大陸で両親を亡くされたと聞く、その献納の善意・機縁を思い、またあの遺物が戦争に関係する可能性が高いこと等を考えると思いは複雑であった。第三に、あの遺物は真・偽いずれにしても身延山で静かに眠ってもらいたいと思っていたからである。
さらに、遺物献納にあたって、献納された方が改訂再版を発願した前嶋教授の『日持上人の大陸布教』には新たに前嶋先生からご教授を受けた横浜商科大学の大沢一雄教授の解題が加わっており、そこに詳しく前嶋論に対する反証の所在が示されている。熱烈な日持上人讃仰の思いからなる中国への顕彰碑等の建立が行われなければ、将来大きな問題は起こり得ないと思っていた。
私は再び自分の無力さを噛み締めた。そんな折り、追い打ちをかけるようにショッキングな別の事件が発覚した。世人を驚愕させた「旧石器時代石器捏造事件」である。にわかに歴史遺物の捏造に世間の厳しい目が向けられはじめた。「日本の歴史」シリーズ第01巻『縄文の生活史』も店頭から回収となった。私は、取りあってはいただけないとは思いつつも、網野先生に手紙を書き、指摘事項の存在をお知らせしたいと思った。私がそうしなければ、社会的な責任を故意に回避することになり、将来宗門へのいわれのない批判が起こり得る可能性をも看過することになると思った。
しかし、住所すら分からない。出版社に連絡すれば網野先生にご迷惑がかかる。ご迷惑と存じつつも中尾先生に趣旨を告げ、網野先生の連絡先を聞いた。すると網野先生はご病気で入院中とのお話、ご病気の先生に追い打ちをかけるような指摘を伝えることは出来ないと断念した。
折しも、九州大学名誉教授で中世史の権威の川添昭二先生からご連絡をいただいた。お尋ねのことは高鍋日統上人についてであった。すぐに当方で確認している僅かな該当資料を送ると、実に詳細な検索資料が送られてきた。先生の指導のもと『太宰府市史』の編纂にあたっている藤岡健太郎先生の作成した基礎資料だった。日統上人は太宰府出身で、当地にはまだご遺族がいるという。
数回の資料の往還の後、私は川添先生に網野先生に手紙を書きたい旨をお伝えした。川添先生は説明を聞き、数年前に作成した指摘資料を機会があれば網野先生に渡したい、との私の筋違いの願いを容れてくださった。
あの遺物に取り組んでから十余年、私はこの件に関して自分の思うところを相手に受け入れてもらえることなど半分諦めていた。理解はしてはもらえたが、実際に動いてくれる人は少なかった。しかし先生はすぐに対応して下さったようだ。私が送付した資料は川添先生の手で網野先生に届けられていた。
電話連絡の後、川添先生から送られてきた網野先生の『日本とは何か』第四刷の六十五頁には次のような著者注が付されていた。
[(第四刷、網野注)六一頁の写真をはじめとする日持関係の遺物について、中尾堯氏より編集部に御連絡があったのに続き、川添昭二氏の御教示により後世の作ではないかとする西條義昌氏の指摘のあることを知った。この指摘は説得力があり、それ故、六〇〜六二頁の前嶋信次氏の説に従った日持に関わる記述の根拠には疑問があり、検討の余地のあることを明記しておきたい。中尾・川添両氏に御礼申し上げる。]
川添先生の温かいご配慮には感謝して余りあるものがある。また、私は知らなかったのだが中尾先生も電話をして下さったという。そして、私が作成した僅かな指摘事項の概略から多くを推察され、自身の引用資料の典拠の不備を速やかに是として容れ、右注記文を掲載された網野先生の冷静な姿勢と誠意に敬意を表し、あわせて真偽未決の資料が不用意に配布されるに至った経緯について、心からお詫び申し上げたい。網野先生の誠意に答える意味を込め、以下に網野先生にお伝えした当該遺物の指摘事項に些かの詳細事項を加えて報告する。 (財団企画委員/元日蓮宗新聞社勤務 西條義昌)
伝・「日持上人宣化出土遺物」の概要
【文書表面】
高橋智遍師が『日持上人研究』の中で指摘されているように、宗祖のものとは判じがたい書体で、宗祖のものと見るより、むしろ川合芳次郎氏が、自らの管理下にあったと考えられる京都燈明寺の三重塔(売却されて今は三景園にあり)より発見されたとし、大正四年の御大典の折りに皇室に献上しようとした蒙古調伏の衛護の本尊(真偽未決/清水龍山編『真日蓮義偽日蓮義』に詳細あり)の文字に確かに似ています。川合氏については今後詳しく調査の必要があると感じています。戦前の資料を検索しますと、川合氏、またその後に活躍した高鍋師の著作にもこの衛護の本尊と第二文書の日蓮聖人の画像と酷似した挿し絵が一組になって出ているのも気になります。
【文書裏面】
僧侶の持ち物というには少々突飛な師の御影を鹿などの動物の皮に表装したことについてわざわざ入手のことを記して説明しているのが気になります。また、「宣化」の地名の語についてですが戦中に開教地で「・・・を宣化しなければ」などと布教と同義に用いている「宣撫教化」(図版@参照)の略語としても用いられている語で、この地名はその意味を含み持ったものと考えます。宣化市近くの張家口には蒙古開教監督・高鍋日統上人が立正興亜道場を昭和十七年に開き、翌年には宣化立正興亜道場を開いたという資料があり、この地名はまさしく当時の大陸における日蓮宗の布教の中心点を指しています。
図版@
『日蓮宗教報』昭和15年6月10日号より
*右から9行目に「宣撫教化費」の項目がある
【文書表面】この画像は恐らく明治二十六年九月に川合芳次郎氏がシカゴで開かれた万国宗教大会に配布した英文の日蓮宗のパンフレットの挿し絵の写しであろうと考えます。(図版A参照)目・鼻・眉の関係、衣の処理などほぼ全同ですが、敬って背後から水に映したお顔を拝しつつ肖像を描くという、水鏡の御影の描画形式を理解していなかったためか、肩の線を下げて正面像に修正しようとしているかのごとき描線の系統的移動が見られます。よって本画像の成立は、元になるパンフレットの挿し絵が出まわった後、恐らく描画に不慣れな者が、何らかの作為をもって元画像を写した可能性が非常に高いと考えます。また、敬うべき師の画像上の「御聖師御遺影」の文字をはじめとするさまざまな書き込みがある本幅は、才に秀でるも誠実・謙虚の姿勢を堅持した墨跡を遺す彼の持師の持ち物とは到底考えにくいとの指摘もあります。さらに、高橋師が指摘するように「東部環球」の語は当時の持師の知識と見るのは突飛で、単に大東亜を意識させる短絡的な作為的用語のような感が確かにします。
明治二十六年九月に川合芳次郎氏がシカゴで開かれた万国宗教大会に配布した英文の日蓮宗のパンフレットの挿し絵。この図版は後出の昭和10年の『大亜細亜人』にも衛護本尊と共に掲載されている
参考/画像の複合対比
茶線=文書画像
赤線=パンフ挿し絵
眉と目・鼻・耳などの関係はほぼ全同だが体とのバランスが妙である
明らかに赤線の画像の成立が先と思われる
【文書裏面】この第二文書裏面は遺物中、最も饒舌で、それ故に偽造の可能性を色濃く匂わせています。本文書の西夏文については、かつて西田龍雄先生に学んだ西夏文研究の松澤博先生に調査を依頼しましたが、先生からの指摘事項は以下の通りでした。@西夏文字を遼の滅んだ後にあったとされた後遼の文字とした、ある一時期にのみ起こり得る歴史認識の誤りが記されています。《詳細T》A左下の西夏文字の「詩」としている文字群は一文字ごとはそれに似た西夏文字があるが、配列は全く意味をなさない(図版B参照)。さらに別の方から、各所に文字に重ねて印が押されているが当時に無い用例であるとの指摘もなされています。(他の表装文書・経典にもすべて印が多用されています)
《詳細T》西夏文の「詩」には次のような奥書が述べられている。
「宣徳城に於いて、妙法に帰することをちぎった友人に八十五歳の鄭老があるが、ある日、庵を訪れ、この聖師の御姿をじっと見ていたのち『どなたにておわすか』と問うた。『これこそ、かねがね御話申している日蓮御聖師の像ぞや』と答え申せば、鄭老は、さらに 凝視すること一刻ののち、拱手して二拝三拝し、重ねて言う。『遼国の聖祖の像に似ていられる。遼国はすでに滅び去り、今は国称も改まった。われらもまたかかる次第にて ひたすら大元国の命法に従っているのである。それにしてもわたしは遼の文字を書くことができるから、いま一詩を賦してここに書き入れさして頂きたい。』この申し出をこころよく応諾した。この詩の意味は、日蓮の妙法の実行達成を誓ったものであるという。わたくしは重ねて鄭老に感謝の意を述べた。」
ここには、歴史上の矛盾がある。ここに登場する鄭老は〈自分は遼国の者だが、表の宗祖のお顔が遼国時代の自分の師に似ている。しかし、遼国はすでに滅び去った。だから、私は師を偲んで遼国の言葉で詩を草したい〉と述べ、西夏文字群を書いている。
遼の文字であるなら、当然、契丹文字であるべきなのに、西夏文字に似せた文字群が書かれている。
西夏文字は発見当初は確認されず遼の契丹文字とか、あるいは一九世紀末のヨーロッパの一部学者の間では金の女真文字と混同された時期もあり、二〇世紀初頭にようやく西夏文字として確認され、さらに、ロシアのコロズロフのカラ・ホトの発掘で大量の西夏文献が発掘されて、西夏研究が大幅に進んだ。すなわち、初期においては西夏文字は契丹文字や女真文字と混同されていた状況があった。この文書はそうした初期の誤った認識の上に立たなくては不可能な記述がなされている。恐らく、このような誤認にもとずく歴史上の矛盾を表現し得る時代は、二〇世紀初頭をそれほど下らない時代、学説が周知されるまでの時間差を考えて期間を広く取っても、一九〇〇年から数十年間と思われる。
『大亜細亜人』昭和十年二月号
*この号には上記川合氏作成のパンフ画像と衛護本尊が掲載され、蒙古開教に意義あるものと取り上げられている
【文書表面】高橋師が指摘するように、基本的な筆法は先の衛護の本尊と近似していますし、お題目と同一面にかなり大きな文字で布教の決意などを書いているのも気になります。「沐決」「巡錫」の語も妙です。
【文書裏面】「巡錫」の語が再びあります。情緒に富んだ漢詩も記されています。永年讃仰してきた日持上人の姿と自分の境遇を重ねた、製作に携わった者の想いが素直にあらわれているのだと思います。製作の中心人物は高齢で病気だったのかもしれません。持師の花押がありますが、先の文書の日蓮聖人の花押もこの日持上人の花押も疑うべき点が多いようです。(図版C参照)
西 夏 文 経 典
宣化文書西夏文経典
図中に挿入したエリア番号部分が下記の発掘図録複製原本と対応している
E・グリンステッド著『タングート・トリピタカ』所収の華厳経巻41図版より
↑ここでこの経典の複製復元摺り本を切り離し、間に上のAを張り、任意に印や書き込みを施したものであろう
この西夏文経典については松澤先生に調査を依頼しました。この経典については前嶋先生の論文発表直後から西田先生が反証を示していますが、松澤先生にはさらに詳細な指摘事項をお教えいただきましたので、その要旨を以下にまとめました。
《指摘事項要旨》
この宣化文書の西夏文経典は図に示したごとく(図版D参照)、上の宣化文書の経典の@からBの部分が下の発掘された西夏文経典と照合できる。この経典の本文は、京都大学を中心とする西夏文研究・解読作業により図に掲げた大正新修大蔵経の文章でいうと、ちょうど線で囲んだ部分と確認されている。これは内容的にも文章的にも文の途中から始まり、文の途中で切れている、単に西夏文を読めない者が、恐らくこの経典の意味などしばらくの間は解読できる者などが出るはずはないという短絡的な予測の上で、版本の頁の切れ目を切り離して適当に繋ぎ合わせたものと思われる。
さて、この発掘された版本については後に幾つかの発掘品を複合して当初の姿を復元したものが紹介され、これをもとにした複製(かつて西田先生が指摘した後世の複製本/一九二〇年頃、元の版本を使って北京近辺で市販されていた)が出回った経緯がある。恐らくこれはその複製をもとに、経典の意味を解さない者が、適当な個所を切り取って別巻の経典の仏画に張りつけたもので、切り取りの原本は複製を加工したものと考えられる。
宣化文書のAの印は「皇帝詔書」と読める西夏文字だが、当時の印でなく、新たに印刻した印と思われ、経文とは何らの関係も見いだせない。「皇帝の詔に随って訳す」というのが西夏経での常套句なので、「皇帝の詔を書く」ではおかしい。
Bの印の意味としては西夏の崇宗の紀年「元徳二年」(一一二一/前嶋説では西夏字で正徳二年=一一二八年と読んでいるが)と読める。一方、宣化文書の同印の下には「大徳二年」(一二九八)と書いているが、西夏官印に残るものを精査しても「大徳二年」と読むのは無理である。「大徳」の紀年は西夏の崇宗時代にもあるが、文書中の干支「戊戌」は西夏の「大徳」の紀年と合わず、元の成宗時代の紀年「大徳二年」とぴったり合う。したがって「大徳」は元の紀年であって、印の「元徳」は西夏の紀年であり、肝心の印面と奥書の年代その他は決定的に相違している。
『大正新修大蔵経』279
「大方広仏華厳経」巻41
線で囲んだ部分が上の図のAの部分に対応する。
内容的にも頭切れ・尻切れで全く意味を為さない
これは作の雰囲気も材質も当時のものかも知れないと、材料的には考えます。ところが、盒の底面に集中して日持上人関連の打刻があるのですが、この内側をよく見ますと、打刻のほとんどの痕跡は腐食によって黒変のままですが、ただ一連の文字群の打刻跡のみが白く浮き出してしています(図版E参照)。恐らくこれは古い材料に新しく打刻したため、内部の材料面の腐食が剥離した可能性が高いとのことでした。それがすべて日持上人関連の打刻に限られていることから、残念ながら偽造の痕跡を指摘せざるを得ません。
図版E
盒内部の文字の打刻痕
上の「寿」の痕は腐食して黒いままだが下の日持の「持」の字の痕は腐食が剥離して地金が突起している。明らかに古い材料に後世に手を加えたものと思われる。
これは、何で本物の可能性があると残されていたか、よくわからない品です。蓋のつまみの形が当時の形式ではなく、かなり後代の形式とのことです。まったく日持上人とは無縁な品と考えます。内部に「南無妙法蓮華経」「日持」「薫香入」「十六文」と書いてあります。古い壺にただ書いてあるだけ、作為的な書き込みですが、材料とする品の吟味が疎かだったので、偽物としても二流品です。それにしても「十六文」「薫香入」とは何でしょうか。偽物を作るにしてもこれは消しておいた方が良かったのではないでしょうか。こうして考えると、これら一連の品々は人を惑わす偽物とするにはあまりにも無防備で、悪意のようなものが見えません。持師の生涯と己の境遇、大陸に王道楽土を夢見た日本の苦難、それら作者の思いがこの品々に込められているのではないでしょうか。
これも材料的には時代に対応したものとも考えられるものです。本品については、身延献納後に、繊維を東大のタンデム研究所に依頼して年代測定が行なわれ、当時の年代の数値を得ています。織物に詳しい方に聞いても、この鳳凰の刺繍の古布の雰囲気は確かに当時のものと見ることも出来るとのことでしたが、同時に、加工が不自然との指摘を受けました。先の塗銀盒と同じく、古い材料を加工したものと考えます。確かに、中国では特別な意味をもつ豪華な鳳凰のつがいの一方が、ざっくり円形に切り取られているのは不自然です。材料が古くてよい品であればあるほど、後世の加工は見分けやすいとのことでした。『日持上人宣化出土御遺物図録』に布を捲り内部の文書を示した鮮明な図版が掲載されていますが、布の裏面の折り返し部分の処理を見ると不自然なほど雑です。また内部の書き込みは円の中に「南無妙法蓮華経」と縦に記され戦中の日の丸の曼荼羅を思わせます。
この2点については、あまりに恥ずかしいものなので、敢えて図版を掲載する必要は感じられず、略そうとも思いましたが、これら9点の遺物の雰囲気を知る参考にもなると思い、掲載することにしました。
[印籠]
鎌倉時代に印籠があったという例は知りません。岩田氏が中国から持ち帰ったとされる品は九点以外にもあったということですが、そうしたものの中にはこういった素朴な偽造品も多かったのでは、と感じさせます。
[香盒]
右の印籠と同じく鎌倉時代の香合とは考えられません。これも偽造品というにはあまりにも無防備です。
◇おわりに
この遺物の周辺について諸先生方のご意見を聞き、折をみては確認作業を行うようになって、もう十年以上になる。当初はこれら遺物中何点かは本物があるに違いないと思っていたが、今は九点すべてが持師のものではないと考えている。もしそうであるならば、これら品々をいったい誰が作ったのかということが問題になる。
品々に残された不自然な記述を総合すれば、彼の地で蒙古開教監督として東奔西走の毎日を送っていた高鍋日統上人やその少し前の時代に様々な分野で活躍されていた川合芳次郎氏が線上に浮上してくる。
しかし、実は私は今はそう考えていない。ましてや、日蓮宗はじめ他の法華系宗派が組織としてこれらの品々の制作に関わったものではないことは明白である。これら品々は、やはりどこか個人的な思いをもって制作されたもので、喧伝されることを目的としないものであったように思う。また、当時もし、高鍋日統上人や川合芳次郎氏という宗門に直接影響を与えることが出来るこの二人のうち何れかでもこれら品々の制作に直接関与していたものならば、これら品々はもっと語られ、公に喧伝されていてしかるべきと思うのである。折を見て当時の雑誌を検索してきたが、未だこれら品々に言及した記事に至ったことはない。
これら品々は忘れ去られようとしている歴史の暗部から一筋の道を私たちに開いている。そこから、何か悲しいものが伝わってくるような気がするのである。むろん、これは単なる私の個人的な感傷に過ぎない。これらの品々の周辺を研究されている諸先生方は、もうそのことについて核心に迫っているのかもしれない。それはやがて明らかにされる日が来ると思う。
本稿を執筆し、最後に思うことはやはり、彼の戦争の地に再び日持上人を立たせたくない、ということである。そして、あのような戦争を二度と起こさないためにも、戦地に消えた無数のいのちを私たちはもっと見つめなければならないと思うのである。あの無数のいのちの悲しみは、星を映さぬ黒い川となって、敗戦日本の現代を生きる日本人の心に今も流れている。そして、あの遺物はそのような心を持った日本人をして惹きつけてやまないものを宿している、そんな気がするのである。