同室者楢崎正彦氏の回想



 閣下はその夜に限り暫く床の上で坐禅をされた。いつもは唱題を二、三回やってながくなられるのだが、唱題の後三、四分坐禅である。そして漸く床にながくなられたと同時に、玄関が騒がしくなった。
 足音は数人こちらの方へ近づいたと思うと、枕許で「岡田」といふ首吊りの声であった。ひょっと瞳をあげると、ガチャガチャと錠が外され、数名の兵隊が立っている。
 ああ兪々来た─岡田さんを見ると、身動きもされず横のまま、今一度オカダの声がかかったので、僕は思わず跳起きて「岡田さん」と最後の叫びをかけた。
 すると下から鋭い眼をぎょっと据えて看守らを見上げておられた。
そして「よしきたっ」と声と同時にフトンを蹴って起きられた。
─wait moment─、暫く待て─とはっきり、然もゆっくりと言われて服をつけられた。
 僕は余りの突然に物も言えずただ合掌した。すると閣下は口をすすがれ、再び顔をふかれた右手首にいつもの数珠をかけられて
「なすことはなし終わった。君らは心配するな。最後まで正法を護念せよ」
と言って、かるく頭を撫でて下さった。下駄をとって出ようとされた時、下士官がフトン全部、本も持てと言った。
 再び毛布をひろげ、僕のかるい布団と一枚をかえて包み、廊下へ送り出した。思わず自分は「南無妙法蓮華経」と声が咽喉をついて出た。
 するとあちらこちらの部屋から一度に大きな唱題の声がわきおこった。その時ここのアダムという大尉が来ていて、彼は終始不動の姿勢で見守っていた。
 矢張り将官というものに対する敬意をもっていたのである。
 目の前で手錠をうけられ、一番端の部屋より挨拶をされて廊下をいかれた。
 そして階段をおりつつ、閣下の大きなあの美しい唱題が廊下一杯に響き渡り、大扉のしまる迄相呼応して唱題の声がつづいた。              (『久遠』225〜226頁)